三重縣護國神社の社宝
-御創建、御造営ゆかりの品々-
①明治2年 藤堂高泰奉納瓶子(一対)
【解説】
この瓶子一対は、明治2年11月に三重縣護國神社の前身である招魂社が、八幡神社(現在の津八幡宮)境内に創建される時に藤堂高泰らによって奉納されたものである。藤堂高泰は津藤堂藩の家老で、第百五国立銀行(現在の株式会社 百五銀行)の初代頭取を務めた地域の名士である。
高泰は、明治4年7月に伊勢の神宮の事務統括機関である神宮司庁が設立されるにあたって、初代神宮少宮司の職に就く等敬神の念篤く、神道界とも縁が深い人物であった。
参考文献
『百五銀行百年のあゆみ』上巻,百五銀行企画調査部,昭和53年.
神宮司庁 編纂『神宮綜覧』,国史研究会,大正4年.
②北白川神宮祭主御歌色紙
【解説】
この色紙は、昭和32年10月23日に北白川房子神宮祭主様が、当社を御参拝なされた際に下賜されたものと伝えられる。御歌の内容は、当社の御遷座に関わった人の幸せを願われるものであると解釈するのが自然であるが、「大神が二十年ごとのみやうつり」とあるのには注意を要する。祭主様が歌中において「大神」と御詠みになられる時は、通常、皇祖天照大御神を指すと考えられ、「二十年ごとのみやうつり」の語も神宮の式年遷宮の事を指していると推測出来る。即ちこれは、元々は神宮の式年遷宮に対して御詠みになった御歌であると考えられる。
その御歌を当社の新しい御本殿が神宮の外宮東宝殿を譲り受けた事をお踏まえになられて、特別に下賜されたという説が現在最も有力な説である。但し、あくまで推測の域を出ず、今となってはその真意や奉納の経緯を知る由もないが、祭主様が御英霊への御崇敬の範を全県民にお示しになられ、格別の御心を寄せておられたという事に変わりはないのである。
参考文献
北白川房子 著『杉む羅 : 北白川房子歌集』,神宮司庁教導部,昭和38年.
『神宮・明治百年史 補遺』,神宮司庁,昭和46年.
③昭和32年遷座祭召立状
【解説】
この召立状は昭和32年10月20日の御本殿正遷座祭斎行にあたり、靖國神社の筑波藤麿宮司から贈られたものである。筑波宮司は、山階宮菊麿王の第3王子としてお生れになったが、東京帝国大学御卒業後に皇籍を離れ、以後筑波姓を名乗られた。終戦後の昭和21年1月より、初の皇族出身の宮司として靖國神社へ御奉職され、終生惟神の道を歩まれた。
筑波宮司からの奉納の経緯は現在不明であるが、態々「社宝」と名付けている事から特別の故あっての事と推察出来よう。本状を見ると、漢字の氏名の横に数か所、鉛筆でふりがなを付された箇所がある事を確認出来る。この事から本召立状が単なる記念品ではなく、実際に召立の儀に用いられた祭器具である事が分かる。文中に「御靈代」とあるのが所謂、御神体であって、林宮司が奉戴の所役となっている。奉仕者にもそれぞれ役割が与えられ、「先導」を先頭にして行列を組み、指定の威儀物を奉持し、楽を奏しながら、御本殿を目指し参道を進むのである。
参考文献
好崎安訓 著『神社祭式詳解 : 研究と実習』,明文社,昭和39年.
阪本広太郎 著『神宮祭祀概説』,神宮司庁教導部,昭和40年.
④田中覚造営奉賛会長献納書2通
【解説】
本献納書は三重縣護國神社造営奉賛會から三重縣護國神社へ奉納されたものである。昭和31年3月11日に儀式殿、社務所、参集所を、翌昭和32年10月23日に本殿、宝殿、祝詞殿、拝殿、神饌所、祭器庫、翼廊、控所、手水舎を献納している。田中覚造営奉賛會長は、三重県北部の四日市市の御出身で東京帝国大学農学部を御卒業された後、農林省の官僚となられた俊英である。その後、三重県の要職を歴任され、昭和30年から5期17年にわたって三重県知事の職にあった。即ち、この献納書2通が奉納された時、田中會長は現職の三重県知事であったのである。
凄惨極めた戦災からの復興造営は戦没者遺族を中心として全県民を挙げて実施されたが、知事を始め地方公共団体の首長の協力なくしては実現し得なかったであろう。田中覚造営奉賛會長は、造営を完遂させたのみならず、三重県知事としても当社社報『三重護国』に度々寄稿されるなど、積極的に御英霊の顕彰と慰霊に関わっておられた有徳の士である。
参考文献
『人物展望』,日之出新聞社,昭和34年.
『1959年版 伊勢年鑑』,㈱伊勢新聞社,昭和33年.