林宮司挨拶文集1

- 過去の社報から -

 


『天皇陛下の幣帛料を畏くも臨時大祭に奉納賜わる』

 

 全国の護国神社では、終戦後の英霊合祀がほぼ終了致しますので、戦後十五周年を期して、日本の平和祈念と共に、今秋一斉に合祀概了奉告の臨時大祭を執り行うこととなりました。

 当護国神社に於ては来る拾月弐拾壱日秋季大祭に先立ち、之が臨時大祭を斎行することに決定致しました所、今回畏き辺りより、特別の思召を以て幣帛料をご奉納賜わることになり、誠に恐懼感激に堪えませぬ。

 当神社は、ご案内の通り、戦災復興のため県民遺族崇敬者各位の絶大なるご奉賛を仰ぎまして、全国にも誇る荘厳な社殿のご造営が完成致し、未だ喜びの感激も覚めやらず、日々感謝のご奉仕を申上げていた際でもあり、今回図らずも、天皇陛下より幣帛料をご奉納賜わることになりまして、一入の感激胸迫り人知れず感涙を覚えた次第であります。

 承れば靖国神社、神社本庁或は各県地方団体に於かれても、此の特別の思召を伝え聞かれて、それぞれ幣饌料を献供されるやの由にて、重ね重ねの光栄でご座います。斯くの如きは終戦十五周年に当り、護国神社の社史に一転期を劃する重大なる慶事であります。

 殉国の英霊を奉斎する県下唯一の護国神社の性格から言っても、当然とは申し乍ら、全国護国神社五十余社へ一斉にご奉納賜わりますことは史上嘗て無いことであり、厚く深いご聖慮の程が拝察されて、誠に恐懼の極みでご座います。

 御祭神におかれましては、嘸かしお悦び頂いていることと信じまするし、県下五万の遺族の皆様始め二百万県民崇敬者の皆様にも斉しく感激下さつたことと拝察致します。

 この有得難き特別の思召を体して、今後益々精励以て英霊精神の顕彰に邁進することを期する次第であります。先般全国護国神社の宮司一同相会し、此の光栄に感激しつつ思いを新たにして次の決議を行いました。

  決議

 今秋全国護国神社に於て合祀概了奉告の臨時大祭を斎行するに当り、畏くも

天皇陛下より特別の思召を以て幣帛料の御奉納を賜わる。洵に恐懼感激に堪えず。

 茲に吾等は内外の時局に鑑み、益々護国の英霊の顕彰に努め、肇国の精神に則り、道義の振興を図り、弥々平和国家の再建に挺身し、以て有難き御聖慮に応え奉らんことを期する。右決議する。

 昭和三十五年八月二十六日

  全国護国神社会

 

固より靖国神社に於かれては、明治二年軍務官知事嘉彰親王勅を奉じて祭主となり、地を田安台に相し、明治維新の戦歿者を招魂社として鎮祭せられしを、明治十二年別格官幣社に列し、靖国神社と社号を賜わつた由緒によって、ご案内の通り、度々の行幸もあり、或は奉幣のため勅使のご差遣枚挙に遑ありませんが、今度のように、地方の護国神社に於ては殆んど其の例を見なかつたのでございます。

 僅かに終戦後地方行幸の際、図らずも護国神社の社頭をご通過遊ばされる折には、親しく御下車の上でご拝礼の光栄に浴した神社がございます。一昨年は愛知県護国神社に於て戦災復興後の御遷坐祭を催されるに際し、特に幣饌料をご奉納遊ばされたのが始めてであります。

 三重県護国神社にては勿論今回が始めてでございまして、戦前の官国弊社に対しても、其の例を見ない折柄、別記の通り、去る八月二十六日宮中に於て、全国の護国神社宮司一同参列のもとに、厳粛なる伝達式が挙行されたのであつて、私どもの永く忘じ難き感激でございました。

 斯くの如く、全国護国神社だけに特に思召を頂いたことを静かに反省し、荷せられたる重き使命を思い、而して深い御聖慮にお応え致さねばならないと誓う次第であります。

 当護国神社は、三重県出身の殉国の英霊を全部お祀りし、全県民崇敬者にとつて唯一つの大きな神社でありますから、全県民の魂の唯一の拠り所とさえ称されている所以であり、全県民崇敬者によつて護持されている唯一無二の神社でありますから、今回の光栄名誉を思う時、護国神社の今後の在り方を、新しく示されたものとして一考せざるを得ません。

 かかるが故に神社関係者一同更に和哀協力以て奉仕の万全を期すよう、全員誓いを新たにしている次第であります。何卒県下遺族崇敬者の皆さまには、臨時大祭に是非ご参拝下さいまして相共に喜びをお頒ち頂くよう御希い致します。

 最後に謹しみて、陛下ご聖寿の万歳を祈念して感激のご挨拶と致します。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『三重県遺族会婦人部研修会(八月二十二日)に於ける社頭講和』

 

 皆さま御早ようございます。朝早くから草取り清掃にご奉仕を頂き、昨日からは大神さまのおそば近くで談笑のうちに研修せられ夜はご祭神を夢枕におやすみ下さつて、本当に神さまもお喜び頂いておることと存じます。厚く厚くお礼申上げます。

 何かお話をとのことでございますが、お集りの皆さまへは何も申上げることはご座いませんし、只感謝の辞のみでご座いますが、皆様を通じて、お隣り近所の皆様へ少しでも御伝へを頂いたらばと思うことを少し許り、ご祭神のお心持を拝察して、お話をさせて頂きます。

 私どもの常々心に念願していることの一つに、此の日本と云うか、この世の中を平和な明るい社会にしたいものだと云う理想がご座います。憲法の精神も人と人とがお互に尊重し合い、手をつないで平和な社会を建設してゆく所にあるのですが、永い年代の間には、村のために功績のあつた人を銅像をたてたり或は国の平和のために尽された方を神社にお祀りして来たのも当然でご座います。吾々が平和な社会を建設し、楽土を建設しようとしてお互に手をつないで話合つてゆく所に、日本人の長所があるのです。

 護国神社のご祭神が、靖国の精神によつてかくも立派にお祀りされているのも以上の日本人として、自然の尊崇なのであります。

 然るに最近では、終戦後新旧思想の衝突と申しますか、親子でさえ斗争すると云うので各地のデモ衝突は三十八度線の戦争のようで実に、同じ日本人同志で、なさけないではありませんか。

 終戦後の物資欠乏から、配給制度の折に、隣組へ一足の軍靴が配給されて参りました。品不足の折柄、きびしい論争の上、左と右と一個宛の籤引としました。右靴の甲も、左靴の乙も喜んで持返つたが、片方ではどうにもならないので、困り果てたが、甲も乙もお互に、譲り合う気がありません。互に君の靴を売つて呉れと云い合うばかりでした。そこで甲が一夜熟慮の上、乙に申込んだのです。「君が欲しがつているのは右靴だね。若し右靴さえ手にはいつたら、君の持つているもの何でも譲つてくれるかね」。乙答えて曰く「よしよし、右靴さえ譲つてくれれば僕の持つてる物を何でもやるよ」と。そこで甲は「それならば、僕の大事な右の靴を君にあげるから、君の持つている左靴を呉れ」と云つたと云うことです。これは笑話でありますが、今の社会の、笑えないナンセンスを、文化人と云う知識人の間で行われているのですから、大いに反省させられる次第であります。私どもは左も右も両方の靴をはいて、日本本来の伝統を守り、清き明き誠の道を歩むことこそ大切ではないでしようか。

 京都の都で或る雪の降る日の出来ごとですが、或る役所の玄関先に赤い旗やプラカードを持つて組合の多勢がワイシヨワイシヨとひしめき合つて遂に門に立ててあつた日の丸の国旗をひきおろし、雪泥の上にまたたく間にふみにじりました。之を見ていたある青年が、その押し合う群集の中に飛び入り、ふまれたり、けられたりして、その日の丸の国旗を拾い上げ、きれいにたたんで門の柱の上に置いてゆくのを見て、思わず感激の胸がせまり、涙を催しましたと云うお話を承りました。

 実に慨かわしい世の中ではありますが、その青年の如く、国旗を尊重し、いかに足でけられようとも、身を挺して、国旗を守り、愛国精神に燃ゆる青年のあることを力強く思う次第であります。

米国でさえ、国旗が唯一つの尊厳国の象徴として絶対視されているのでありますが、幸いなるかな日本は敗戦とは云え日の丸の国旗と共に、天皇を国家の象徴として仰ぎ奉ることの出来る幸福を、しみじみと反省して貰わなければならないと存じます。

 外国ではその国の国旗を尊重し、重要視することは吾々の想像以上であります。然るに我が国では、憲法の上に明らかに、天皇さまを国の象徴として定め、崇め、奉戴しているのでありますから、いかにも私等は日本国民として生れ出た事に感謝と喜びをしみじみ感ずる次第であります。

 或人は天皇さまを指して専制であり、民主主義の敵であるとさえ極限する者がありますが、今茲で一々反論している時間がありませんので、只一つだけ茲に反省してみたいと思います。

 日本でも最も古い古典に伝えている所でありますが、天照大御神さまが、お弟様の素戔嗚尊さまが、ご神田を汚したり、お供えの神御衣の機殿を汚されたりして乱暴されたので、お怒りにもなり、且は姉君としての責任を痛感されて悟りの天の岩戸隠れが始まりました。そこで、皆さまもお聞きの通り、八百万神さまが安の川原で、民主会議を開かれ、それぞれ特技の神さまが全力を尽して、製作し、奉仕されて、岩戸神楽が賑やかに始められ、余りにも楽しく、和気藹々の姿に驚かれたる天照大御神さまは、いかなることかと、そつと岩戸を開けられた所を、天手力雄命さまが戸を全部開けられたので、一度にパツと光が照り輝いたのであります。此の光を六合に照徹したと書き伝えていますのも、天地東西南北の六方に光り輝いたと申すので、これ程おおきなみ光はご座いません。天照大御神さまの偉大なる世界に誇る此のみ光を有難く思う次第であります。此の太陽の如く光り輝いて大きな恵みを与えられ、元の高天原になつたので、此の時に、「天晴れ、あな面白、あな手伸し、あな清明け、おけ!」と叫ばれたのです。

 天晴れとは天が晴れて明るい世界になつたと云うこと。面白とは顔面が白く明るく輝いているから面白と云うのです。手伸しとは手が伸び伸びして、いかにも楽し嬉しい姿です。さやけは清々しく明るいと云うこと。あなとは何ぞや。ああと云うことでもありますが、あは吾で自分のこと、なは汝であなたのことと解釈がされるのです。本当の楽しさ嬉しさは、吾も汝も楽し嬉し、私もあなたも共に楽しいのが本当の楽しさであり、之が日本人の昔ながらの民主精神を示す尊い姿であります。おけとは英語のOK、とは違います。さあ起きて働きましようと云う生成発展の日本精神なのです。私もあなたも皆が楽しく面白く清々しくなつたから、さあ皆で日本を新しく建設のために、立つて働きましようと云う大精神であります。神代の昔に既に育まれている尊い民主的な日本精神をお伝え頂いているのが、天皇さまであると信じて疑いません。

 此の尊い万世一系の 天皇さまから幣帛料をお供え頂くことの出来る護国神社のことをよくお考え頂きまして、ご遺族の皆さま誉の家ののれん、家風を汚されないように、隣の家へも立派な家を建設されるようお手本を示して頂きたいと念願致します。

 以上とりとめもないお話で大変恐縮でご座いましたが、ご祭神の大前で、神さまのお心持ちを拝察し、お話をさせて頂きました。どうか皆さま益々ご多祥に亘らせらるるようお祈りして私のお話を終らせて頂きます。どうも有難う御座いました。

「やすらかに ねむれとぞおもふ くにのため いのちささげし ますらをのとも」

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『所懐』

 

偕楽公園の桜の花が咲く頃、又紅葉の色に菊の花の香る頃、いつもご祭神の偉徳を仰いで、懐しいお祭が、いとも盛大に執り行はれて参りました。

 殊に戦災復興の御造営が、芽出度く完成されてからのお祭はすつかり見違える程に厳粛且つ盛大になりまして、三重県民の心の寄り所に適はしく、ご社頭の立ち栄え坐すことを、感激且つ感謝申上げずにはおれません。

 このように護国神社が立派に栄えられますには、申上げるまでもなくご祭神の御神威の輝き給ふお蔭でございまして、一刻も忘れてはなりません。

 靖国護国の大神と仰ぎ奉るご英霊の数も、六万余柱を鎮め奉ります。幾万と云うご祭神をお祀りする神社は護国神社のみであります。すべて三重県民を代表して、祖国日本の平和のため殉ぜられた尊い方々であります。

 三重県知事さまを始め各市町村長さま又三重県会議長さまなどが、お供えの数々を取揃えて慰霊大祭を司祭下さるのも、由縁のあることであり、ご遺族のことを思ひ浮べて、衷心より有難く感謝を申上げています。

 それのみか、畏くも、天皇陛下さまより、ご幣帛料が献上になりました感激を忘れることが出来ませぬ。皇室からお供え頂くことは嘗てないのでありますが、幾万と云う英霊とご遺族の上を思はれてのことで、更にこの頃は、行幸のある場合、その県の護国神社へ必ず親しくご拝礼を賜はつております。実に、洵に感激の極みであります。

 このような護国神社でありますから、大阪、福岡、愛知、宮城、北海道など殆んどの護国神社が何億円の工事を起して、而も県民挙げての協賛のもと、立派なご造営を完遂されていることを見逃してはなりません。

 群馬県に於いて、県市町村が挙げて其の祭祀並に遺族参拝の接遇に特別協賛されている姿を見習い度いものであります。

 祖国日本の平和のために殉ぜられた英霊に対し、誰一人として慰霊の誠を捧げない人はおられないでありましよう。それが護国神社であるから拝礼が出来ないと云う人がありますが、外国へ代表で往かれた或る紳士、十字架の戦友墓にうやうやしく拝礼されている写真を見るにつけ、外国の英霊を拝しても、祖国の英霊にはお参りの出来ない淋しい心情を、実にお気の毒に思いました。

 この頃、偕楽公園に足を運ばれる若い男女の、まげて護国神社へお参りされる姿が、増えておりますことを喜ぶと共に、各種団体の皆さんが、慰霊祭を主催されてのご参拝が次々と行はれる傾向に感謝を捧げます。

 これ偏へに田中奉賛会長、斎藤県遺族会長各位を始め、県市各方面の並々ならぬご配慮の賜ものでありまして、神社関係者一同愈々精進以て、ご神威の昂揚に努め、お応えしたいと念じております。

(昭和39年3月30日発行 第2号)


『靖国神社国家護持について』

 

 靖国神社は其の御創立の趣旨並びにその後の歴史、由緒に鑑みまして、国家に於いて、護持されることが当然でありましよう。

 その祭祀は国家と国民の感謝の至情に出たものでありまして、慰霊と顕彰とを目的としております。それは護国神社も同じでありましよう。

 靖国神社が特定の教義を拡める宗派でもなく、特定の氏子崇敬者を教化育成するものでも無いので、一般の宗教と同じく、宗教法人法に云う宗教団体とするのも当を得ていないのであります。

 祖国日本の平和を守るために、国家の要請によつて、尊い生命を国家に捧げられた人々に対して、総ての国民の感謝と崇敬の誠とが具現されている所であります。

 この度靖国神社の祭祀制度調査委員会に於いて靖国神社国家護持要綱として結論を出され、各方面に陳情或は請願されましたのも、当然でありましよう。

 全国遺族会に於かれても、結局同じ趣旨に於いて、速やかに国家護持の法的措置がとられるようの運動を、全国的に、強力に押し進められておりますが、ご祭神のご遺族として無理からぬ自然の姿であり、速やかに完遂されることを祈ります。

 靖国神社国家護持要綱については、護国神社関係者も充分理解されて、其の成行を監視されると共に、常によき理解者としての協力を希望するものであります。

 

一、宗教法人靖国神社を解散し

二、その財産を継承する特別の法人を設立する為めの立法を要望する

三、靖国神社の名称は変更しない

四、靖国神社の性格を明らかにする為、目的を限定する

(参考)

靖国神社は国事に殉じた人々に対する国及び国民の敬意と追慕の精神を表示するため、その英霊を合祀、奉斎することを目的とする

五、憲法に於ける信教の自由等の規定に抵触しないよう規定を設ける

(参考)

A、靖国神社は公の教義を定め、若くは特定の宗教に基き、宗教活動を行つてはならない

B、何人も靖国神社に対して参拝を強制され、若くは、正式参拝に関し宗教による差別を加えられない

六、靖国神社の創建以来の由緒及び伝統による施設、儀式行事並びにその他の重要な事項は、その歴史を尊重し、その本態を維持保全することができるよう規定する事が望ましい。

七、合祀の範囲及び基準は国が公に之を定め、天皇に上奏の上決定公示施行するよう規定することが望ましい

八、靖国神社の運営はその自主性を尊重し、政府の監督に当つてはその特性を保持すべき旨規定することが望ましい。

九、合祀に必要な経験、恒例及び臨時の儀式の経費は国費を以つて支弁する旨を定め、維持管理に必要な経費の支弁に関しても適切な方途を講じ得るよう規定することが望ましい

十、靖国神社の行政については、諮問機関を置き適正円滑に施行することができるよう規定する事が望ましい。この機関には靖国神社及び遺家族の代表、学識経験者が加はるよう規定することが望ましい

 

 右のような要綱を読んでいると、靖国神社当局が護れるだけ護つて、兎に角、国家護持の神社にせねば止まぬと云う決意の程が伺はれて、実に感激の次第であります。

 このような慎重な審議の結果生れて来た要綱の内容を、充分検討もされないで、憲法二十条の違憲行為ときめつけて、賛成することはできないと云う態度を公示されている団体もあるが、それは始めから反対するための反対意見であると見るより致し方なく、残念であります。

 靖国神社は国家に於いて護持されることが望ましいと考へながらも、自分の意志に反して、反対せざるを得ない人の反対意見には、見落としの穴があることを指摘せざるを得ないが、敢て争論することを除けたい。

 それはご祭神の望まれる所ではない。只管国家護持に関する特別立法の実現をこそ祈る次第であります。

(昭和39年3月30日 第2号)


『ご挨拶』

 

 わが護國神社のご造営工事も一応竣工されて、皆さまから大変おほめを頂き、喜んで頂いておりますが、何事によらず、建物や装束が立派に造られても、その心、魂が伴わねば真価が生れて参りません。

 お蔭をもちまして、奉賛会長の三重県知事田中覚殿のご理解を始め、公私各方面のご協賛を仰いで、当護国神社にも、色々と得難い立派な良いものを備えさせて貰つていることを感謝し誇りと致して、ご奉仕を続けています。

 此のような、ご祭神にもお喜び頂いている立派な誇りは何であるか等、私の口からご披露申上げることは、洵にお人好しの次第で、お恥かしい限りですが、懐しい氏子として常に熱いご崇敬を下さるご遺族の皆さまにはよく知つておいて頂きたい事柄でありますから、自慢話も敢て自慢でなく、事実としてお話を申上げようと思います。

 第一に神殿から申上げれば、本殿、拝殿、社務所に到るまですべて神明造で一貫していることであります。これは他の護国神社には類似はありません。

 ご本殿が神宮からご撤下の総桧造のご殿であり、拝殿翼廊控室等銅板葺鉄筋コンクリート造りで、扇形配置では嚆矢であります。

 神宮ご撤下による五丈殿を改装申上げた儀式殿も他にない立派なものだし、皇太后さまが、神宮ご親拝の折、ご潔斎所と定められたる記念のご殿をご下賜いただいて、そのまま座敷にして記念としていることは余りご存じの方も少ないのではないかと存じます。

 神宮の太郎杉によるつい立、机或は銅製狛犬等、珍らしいものが多々ございますが、特に遺族会からご献納頂いている国旗掲揚塔、お初穂米格納缶等も、このお宮だけであります。

 さらに数年の歳月を費やして調査調製されましたるご祭神名簿は、戦災をうけて、すべて全焼致しましたる神社として、実に尊いものでありまして、県下市町村別、合祀年度別、あいうえお別調査の上、五万八千七百八十八柱のご祭神名、ご遺族名等県内外に亘り、完了致したことを、本当に喜んで頂きたい。

 その上に御霊璽簿について県市町村の格別のご協賛を仰ぎ大和錦に包まれて、全ご祭神名を浄書申上げたのでありまして、ご本殿のみならず、その奥深くお祀り申上げているご霊璽にいたるまで、全くすべて真新しく竣工申上げ奉り終えたのであります。

 春秋の大慰霊祭の所謂大祭に於いても、県市町村の格別なる特別神饌料のご奉納と共に、知事、県会議長、市町村会長等交替による祭典委員長のご奉仕も例の少ない姿でございます。

 殊に知事さまが、当時自ら特別神饌料を捧持してお供え下さる儀など、心から、英霊のお喜び下さつている姿であると存じます。

 お祭の開式前に、全員起立して国歌君が代を皆さまが歌い始めると、日の丸のみ旗がしづしづと社頭に昇るのです。或はまた式中に必ず神宮伶人のご奉仕による舞楽が奉納されるし、神職は県下の各郡市の代表神職が漏らさず参加される等本当に他県ではないのであります。

 斎藤県遺族会長作詞のみたま賛歌を遺族婦人が斉唱し、お祭の終える頃、知事の発唱で聖寿の万才を、万余の遺族と共に三唱する等うるわしい光景は、このお宮だけだといわれていますが、本当にご祭神の心を心とし奉仕の叶う、有難い姿のお祭でございます。

 十指で数え切れない長所を備えて、三重県民の魂の寄り所と仰がれる護国神社として発展して参りましたのも、偏えに皆さま方の格別なるご崇敬の賜でありまして、言葉にはいい表わし難い、感謝の念で一杯であります。

 まだまだ、皆様方のお心尽しに応えが難い節も多多あることを恐懼に存じておりますが、兎に角他県の護国神社にも無い、珍らしい長所をご披露して、一層のご支援をお願いし、御礼旁々御挨拶と致します。

(昭和40年4月30日 第3号)


『ご挨拶』

 

 靖国神社を国家でお護りして貰いたいとの希望は、遺族の皆さんだけの問題でなく、国民全部が関心を持つべきであります。明治天皇さまのご聖旨によつて創立されたご由緒からして、当然のことであります。

 靖国神社が宗教法人であるから、憲法違反となるので、国家護持は出来ないと云うのなら、靖国神社を憲法に反しないように、特殊法人としてでも、当然国家で護持して貰いたいものである。

 但しご創建の本旨にもとるような、慰霊、合祀の出来ないような性格に変えてまで、即ち祭祀行事を除けとあつては、角をためて、牛を殺すの類で、賛成は出来ない。

 英霊を奉斎して、慰霊、合祀を行えないでは靖国神社存立の本旨を失うであろう。そのような無理を押してまで、即ち靖国神社の性格を変えてまで、国家護持を求めることもないでありましよう。

 三重県護国神社の崇敬者責任役員である吉田勝太郎翁は四日市市名誉市民八十六才の高齢であられ、加えてご不自由な足を運ばれても、必ず春秋慰霊大祭に参列される。護国神社の祭礼とか役員会合には欠かさず出席されるのであります。知る人の皆感激措く能わざる所で、全く頭がさがります。

 吉田翁は戦時中、四日市市長として活躍され過労のため病に倒れられたが、強い精神力と正しい養生とで、只今も奉公されている郷土の偉人であります。

 吉田翁の曰く「出征軍人を送る時に、銃後のことは私が引受けましたから、皆さまは国家のために奮斗して下さい、とお約束したのですから、その誓いの言葉を守つて、せめて護国の英霊のお守りをさせて貰いたいと考へたので、戦後の護国神社の復興に奉仕し、且つお祭に欠かさず参列するのも、其のお約束を守らねば相すまぬからです云々」とのことで聞く者一同感激の極みであります。

 靖国神社と云わず、護国神社にても、国民、県民全部でお守りし、お祀りするのが当然ではないでしようか。

 吉田翁を始めとして沢山の方々が、同じ考えのもとにお世話下さるので、わが三重県護国神社は、田中三重県知事殿を始め県民一同の暖かいご理解を仰いでおり、意義深い祭祀が執り行われていることを、本当に有難く、感謝を申上げている次第であります。

 この度省線津駅西裏地区を整備するため、区画整理が始まりまして、当護国神社も東側の道路拡張により百坪余りが削りとられることになりました。

 近来ご遺族の参拝にも、西駅へ下車される方が多くなり、細い道を通つて、裏参道から参拝されるので、なんとか立派な道路にならないものかと案じていたのですが、今回の工事によつて、広い舗装道路となり、ご参拝にも近道であり、清々しい便利な道となることを嬉しく思います。

 このような次第で、緑の生垣が全部切り開かれましたので約百間に亘り、玉垣塀を建造せねばならなくなりました。護国神社に適わしい、立派な塀にしたいと思うと、仲々の大工事になるわけであります。

 それから常々、ご遺族を始め、崇敬者の皆さまが、楽しく会合の出来る会館を建設したらとのご意見がありますので、この機会に、適当な護国会館を計画して、明治維新百年記念事業として実施するの案を、種々検討中でご座います。

 種々のご意見を参考に致しまして、建設に決定致しました暁には、大方の皆さまのご協力を仰がねばならぬと存じますので、其の節は宜しくお願いを申上げます。

 今年は明治維新より数えて百年目であり、政府に於いても今秋十月二十三日に明治百年祭を行う旨予告しております。神社本庁にあつては、五ヶ条ご誓文発布の年より数えて、今春三月十四日を明治維新百年記念祭執行の佳日を卜し全国神社に布達しておりますので、わが護国神社では慰霊大祭の多数参拝される日を卜して執行する予定であります。

 戦後二十数年にして、わが国経済の発展は目覚しく、今や世界の注目する所でありますが、国民思想の乱れは斉しく国民の憂うる淋しい姿であります。

 民主憲法下に経済の発展と社会福祉の向上とに国民生活も漸く安定されつつありますが、その反面青少年の教養に於いては洵に憂慮に堪えないものがあります。

 世界の歴史を省みても、其の国の伝統を軽んじ、其の国民精神の薄らぐ時、殆んどの国が滅亡しております。三千年の歴史伝統を誇る、わが日本民族が、輝かしい国民精神を忘れて、自我の正態を失つては、遂には国を滅ぼすでありましよう。

 戦後久しく国民思想は動揺を続け、左右兩極争い、その止まる所を知らず、近時わが経済力の伸展と共に、愈々相剋激しさを覚えます。就中日本に国籍をもち生をうけ乍ら、他国を祖国と称して恥ぢない等は亡国の民の辞でなくて何でありましよう。

 この秋にあたり明治維新百年を迎えたことは、わが民族一億国民の総反省を求められる神示であろうと信じます。その国の興隆は一つにかかつて、国民精神の振興にあります。

 わが民族は、わが民族で守るべきです。わが日本は、わが日本国民が守らずして、誰が守れるか。自らの民族が自らを守り、自らの国を、国民自らが守り抜く覚悟を貫かずして、国家の安泰も発展も有り得ないのである。今こそ国民精神を昂揚すべきであろう。

 明治は日本が近代的国家建設への著しい躍進を遂げた時代であり、先人のご苦労を偲び、その功績を称えて、明治維新の魂に襟を正すのも無駄ではあるまい。そして祖国の繁栄と世界平和の祈りを捧げようではありませんか。茲に護国の英霊を仰ぎ、靖国の大精神を胸に、心ある県民の皆さまが、祖国日本のために奮起されることを希つて止みません。

(昭和43年3月15日 第5号)


『ご挨拶』

 

 今年は明治維新百一年を迎えました。一〇一年とは明治維新の心を心として、新しく二十一世紀への出発であることを覚悟せよと云うことでありましょう。その意味では、日本の将来を左右する大切な年であります。

 戦後の日本は、経済的には世界第三位と云い、目覚ましい発展を遂げた反面、精神的文化の向上では全く立遅れ、ビッコの状態であります。思へば国家として実に危険極まりないことであり、いつ如何なる革命が起るやも知れない危機をはらんでおり、洵に憂慮に堪えません。

 三千年の輝かしい歴史を省みれば、日本程優秀な民族は世界的にも珍らしいと云はれ、如何なる国難に向つても国民一致団結して、之を打破り乗越えて来ております。これこそ成せば成ると云ふ立派な大和魂がある民族であることを事実で示しているのであります。

 このようにして、世界の人々が、日本民族の優秀さに、敬意と信頼とを惜しまなかったにも拘はらず、現在はどうでしよう。日本民族が惟神の精神から、正直であり、勤勉であり、大和魂があると云うのみならず、尊厳なる皇室を仰いでいる国柄は、どこの国民からも羨ましがられて、民族に流れる日本精神をば、今や忘れ去るような風潮の激しさは、まことに遺憾至極でありませんか。護国神社の英霊の皆さまが、如何に慨かれていることであろうか。英霊に感謝し、その勲功に敬意を表する者、今こそ襟を正して、国家の存亡を分たんとする国内危機を打破する為めに、立ち上ろうではありませんか。

 世界の多くの国から称讃されていた日本民族の優秀さをば、敗戦とは云へ、優秀でないもののように、国体の精華さへ、打ち棄てよと叫び、日本人であることを忘れたかのように、他国の主義を称讃する若人の多いのは、実に淋しい極みである。立派な民族である日本人たることを恥かしいと考へているのであらうかと疑はれます。日本の尊厳なる歴史を省み、心静かに反省して貰いたいものであります。

 この頃靖国神社国家護持法制定について、自民党の田中幹事長談として、今国会に提出される旨報導されましたが、洵に力強く思います。靖国神社が国家で経営され、その勲功の顕彰、殉国の英霊祭祀が行はれるのは当然でありましよう。その当然のことが、兎や角議論されたり、反対など論争ばかりでなく、デモまで行はれているのを見て、如何に悲しく、英霊の慨かはれていることでしょうか。靖国神社の創建の趣旨に添つて、靖国神社らしく祀られ、英霊のお喜びになるように、取扱はれることが正しいのではないでしょうか。多くの国民の支持をうけて、速やかに立法されることを切望して止みません。ご遺族の皆様、国家護持法の制定されるまで一致団結邁進しようではありませんか。

 昨今の明治維新百年と云う意義深い年を記念して、全国護国神社では、色々と記念事業を実施されています。靖国神社におかれても創立百年を記念して御霊璽奉安殿を造営されることになり、既に立派な偉容を拝され、心より有難く、お喜び申上げます。

 当護国神社では、都市計画により、省線津駅の西口が改修されるため、神社の周囲の道路も広げられましたので、東側の生垣を取り壊ち、新しくコンクリート塀の玉垣が造築されました。ご遺族の皆様が参拝される際に、津駅の西口に下車されますと、美しい外玉垣をご覧になりつつ、一方通行の道路を、安心して、表参道まで歩いて頂けますので、面目一新されたことを喜んでいます。ご祭神に代つて、ご関係の皆さまに厚くお礼申上げます。

 先年来、県市町村の皆さまのご協力を得て、ご祭神名簿が整備されましたので、昨年来ご命日祭を執行し、該当ご遺族各位へ、台帳により、順次、二週間前に、往復ハガキでご案内申上げておりますので、毎日多数の方々がお参りして頂きます。ご祭神さまも嘸かしお喜びのことと存じまして、洵に有難うご座います。

 予てから永代神楽講へ入会された方のみをご案内しておりましたので、護国神社は献金した遺族だけ案内して、一般の遺族を案内しないのかと云うご意見を承り、私は胸を打たれた思いで、早速県下全遺族の皆様へ、ご命日に予告申上げることに致しました次第でありますから、どうか気軽に、普段着のままでお参り下さいませ。ご祭神さまと共にお待ち申上げています。

 永代神楽講は既に年老いて、参拝も六ヶ敷くなられる方が、ご命日に代つてお祀りをして下さいとて、資金を献納されたのが始めで、同じ趣旨の方が申出でて来られると、お預りして、その印として、講員章を差上げております。

 それでご命日祭にお招きしても、永代神楽講員でなくても、少しも気になさらないで、心安く、気軽にお参り頂きとう存じます。先日も「あの子が、大変好きでしたので、これをお供へして下さい」とお餅を持つて参られた。腰の少し曲がつたお母さんを見て、私は心で泣きました。これが命日祭の、うるわしい姿でありましょうか。ご祭神の喜ばれるようにとの配慮が、大切だなあと私どもも話合つている次第です。

 当護国神社は、奉賛会長の田中知事さんを始め、責任役員各総代の皆様のご高配によりまして、その神殿や施設を拡充整備することが出来ました。県民、崇敬者の皆様、殊にご遺族の皆さまから並々ならぬご援助を頂いているお蔭でありまして、益々弥栄える社頭を感謝感激申上げますと共に、県民の心をの寄り所として適はしい神社であるよう、一層の精進奉仕を申す可きであると痛感しております。今後はご遺族各位のご参拝に当つて、落ちついてお休み頂けるよう、ご参籠もしてお泊りも頂けるよう、或は冷暖房付きの施設なり、ご英霊の勲功顕彰に必要な施設なりを拡充整備致しまして、結婚式のために、ご遺族各位へご迷惑をおかけしない方途を考へたいと存じます。何卒一層のご指導ご鞭撻をお願い申上げます。

(昭和44年3月20日 第6号)


『戦災復興十五年』

 

 当護国神社が御造営事業を完遂してから、やがて十五年を迎えます。焼夷弾をうけて、立派な社務所を始めとして殆んどの建物を全焼し、焼野原の境内に、畏くも類焼を免れられた御本殿を拝して哭泣したのも私一人ではあるまい。今にして其の当時を偲べば感慨胸に迫るものがある。

 神道指令をうけて、護国神社は軍国主義につながるから潰してしまえと云う声も流れたのであるが、昭和二十七年頃には漸く消えて、独立日本の姿を取り戻し始めました。伊勢の神宮式年遷宮も無事終りましたので、責任役員の皆様と相議り、田中知事を造営奉賛会長に迎え、大事業を始めました。幸い県下ご遺族を始め県民多数の奉賛を得ることになり、皇大神宮からは旧御宝殿舎のお払下げを受け、全国にも稀に見る、神明造りの全社殿が、近代的に完成したのでありました。

 この時ばかりは、余り物事に動じない私も感激の余り、竣工奉祝祭の折、感極まつて言葉も満足に出なかつたことを想起致します。その後今日までに、足らざるを補い、又最近には御本殿の後方に見えた高層建築も取除かれて一層森厳さを増し、全国にも誇り得る境内となりました次第で洵に有難く、感謝の気持で一杯であります。

 復興資金の募金中、県下を行脚しました頃は、護国神社の将来もどうなるか不安の状態でありまして、或る人は、軍神とか英霊とか云うのは誤りであり、況してや護国の神として祀るのも誤りではないかと云い、或る人は多額な募金をやめて小規模の復興に留めるべきだと忠告をされ、結局募金も断わられ、当惑したこともご座います。しかし私は、家を興し国を建てるには、先づ報恩反始の礼を尽すべきだとの信念をもつて至誠一貫しました。

 幸にして其の後、国民の皆さまが、独立日本の在るべき姿を、落ちついて考えられるようになり、政府としても殉国の霊に対する報恩感謝の礼を尽すべきだとして政府主催の慰霊式典を挙行するようになり、又三重県としても執行されて参りました。従つて護国神社に於ける春秋慰霊大祭は益々盛大となりました。又日常のご参拝も段々と多くなりまして、ご命日祭の参列は毎日続きまして賑やかにご遺族をお迎え出来るようになりました。

 ご遺族のお父さんやお母さんが、自作の米や、お餅、野菜、果物等をお供えになつて、涙を浮かべながら、いつまでも拝んでみえる姿を見て、ご祭神はどんなにお喜びであろうかと思い、私も胸が張り裂けるようです。

 このように沢山ご参拝頂けるようになつたのも、偏へに、立派に社殿を復興完遂し、ご祭神名簿やご遺族名簿の整理を完遂し得たからでありまして、県民の心の寄り所として適わしい護国神社の姿になつて参りました結果であります。戦災復興当時懇願して参りました趣旨は過つていなかつたと思つて、今は只秘かに心から感謝のご奉仕を申上げています。

 然しながら、戦災復興計画の当初に、護国会館を建設すべく設計されていたのであるが、資金不足のために中止され、今日に到つております。

 その後前述のような、参拝者も増加し、各種の会合も多くなりまして、早期会館の建設が迫られています。殊に慰霊大祭の折の大テントが、昨秋の大祭日に、突風のために倒壊大破しまして危険極まりないことになりまして、関係者から強い要望が湧いています。洵に当然だと思うと同時に、護国神社と雖も社会福祉を始め県民文化の向上に寄与すべきであると存じまして、適わしい企画を進めつつあります。仲々容易なことではありませんが、愈々右の計画が熟しまして発表された暁には、どうぞ皆様の格別なご協賛を仰ぎますよう、この機会にお願い申上げまして御挨拶と致します。

(昭和45年3月20日 第7号)


『ご挨拶』

 

 ご遺族の皆さまが、靖国神社の国家護持の法律が出来る日を、どんなにお待ちになっているかと思うと、大祭の日に集られたご遺族さまの姿を眺めて、本当に胸を傷められています。

 神主ばかりでなく、ご祭神のご英霊には如何に慨かれていることかと恐懼至極に存じています。然しながら、東京で承るに、立派な政府の要人のお言葉では、仲々実現しそうもありませぬ。実に残念やる方なしです。みなさまと共に早期実現を祈り続けましょう。

 さて皆さま、この頃神社にお参りする青年男女の多いことは洵に注目すべきでありましよう。この頃、老人と青年との間に越え難い溝があると云われますが、或る一部の家庭ではあり得ると存じます。戦後の教育をうけて成人した青年の間には、全く敬神の念は無いのかと思われるでしようが、よく考れば青年の方も、社会教育やら、家庭での習慣で知らず知らずに、神社お寺に参拝するようになったのあらうと存じます。

 参拝するうちに無意識に日本国民としての連帯感とか一体感を感じていることが、はっきりしています。私共はこの故に青年の皆さまと、よく話合をすることが大切であると考えます。

 たとえば、神道では「まこと」を信仰心の柱としております。此のことは愛とか慈悲と云うように、行為の基盤をなす心情ではありますが、「まこと」と云うだけでは、行為せしめる積極性、推進力は浮びあがりません。真に大切なことは、まことの心情の中に、行為せしめる力をもつものは「忠」と云う「まこと」であろうと考へられています。

 所謂「誠忠」と云う「まこと」心こそ大切なのではないでしようか。戦後は「忠」と云えば占領軍が封建的道徳であって民主主義のもとでは忌むべきものと指摘して、忠臣蔵などを禁止しましたが、忠が封建的であるとは全く根拠のないことで、日本弱体化政策であったに過ぎません。

 正しい忠の意義は二心なきことであって服従の意味ではありません。大久保彦左ェ門の如く、二心なく仕え諫言したからこそ忠臣であります。忠の字の本家である中国で、民主主義の父と云はれた孫文は「忠を消さねば民主主義は成らないなどと云うのは、民主主義の名のもとに亡国を強いるものだ」と云っている位です。論語にも君主に忠のみでなく、友人にも夷敵にも忠友の道を説いています。

 そして我が国に於いては、家族への忠、郷土への忠を象徴して、最後に、天皇に対する忠に帰一するのであることを道徳として来ました。そこで昔から、我が国では、天皇に対する忠誠(まこと)を最高のものと考へて来たわけであります。

 わが護国の英霊が誠忠を尽して国家に殉ぜられ、靖国の神と仰がれていることをよく考へてみれば、戦争の時ばかりでなく、平時に於いても、我が国の伝統精神の中に「まこと」を最高の道徳、精神としてをりますこと、即ち誠忠のまことを味ってこそ、真に日本民族に誇りある国家、平和にして、混乱のない生活に恵まれて来ると存じます。

 護国神社に参拝下さる皆さまが、誠忠の意義を正しく解されて、家庭でも、学校でも、職場でも「まこと」の道徳を守って、平和な生活を打ち建てて頂きたいものだと存じます。

 この頃鎮守のお祭が淋しくなったと云う人がありますが、色々な原因はありますけれども、郷土の平和建設のために、みんなが郷土への誠忠心を振起して貰へば、お祭の意義も理解され、盛大になるものと考へられます。

 どうぞ護国神社は三重県民の心の郷土として誠忠(まこと)の心を、時々お参りして、取戻して下さい。

(昭和46年3月20日 第8号)