慰霊祭祭文

-安濃・竹原地域-

 

三重縣護國神社で行う慰霊祭では、参列者の代表が祭文を奏上する次第ある場合があります。

その一部をご紹介します。

祭文は「祭文」から始まるのが通例ですが、「祭詞」や「祭辞」、「追悼文」、「追悼の辞」、「慰霊のことば」等という文言から始まるもの、いきなり本文から始まるものがあります。尚、祭文の原文を尊重していますが、文意を損なう明らかな誤字については一部訂正しました。


【安濃町遺族会慰霊祭】


 祭文

梅花香るこの日に、ここ三重県護国神社の神前において、安濃町遺族会壮年部の発足に際し、その崇高なる理念を築き、その目的の達成を目指す集いが開催されるに当たり、安濃町遺族会壮年部を代表して、御英霊に謹んで御報告申し上げます。

十年一昔と申しますが、終戦から早五十八年の月日が流れ過ぎました。

顧りみますれば、御英霊の皆様には酷寒の大陸奥深くに寒さに震え、ある時は南国の密林で草の根を齧り、泥水を啜りマラリアにおののきながら、祖国日本の必勝と郷土の平安・安泰を願い、家族・肉親の幸せを心に念じ遠く異国の空に、山野に、海にと無念の最後を遂げられました。

一方、母達は終戦直後の地獄絵そのままの焼け野原で、柱とたのむ夫を戦火に失い、今日の食べ物にも事欠き、生きる術も無くした中で、母の腕に抱かれ、手にすがる私達に全てを捧げ必死の思いで育てて下さいました。

しかし、その母達も年老いて今では、多くの方が御英霊のお傍へと旅立っていかれました。

私達遺児も辛苦の中で、母や家族の温かい愛情を受け立派に育てて頂き、社会の一員として、経済の復興に参画し、世界に類を見ない経済成長を遂げる事ができました。

これも一重に御英霊の御加護の賜と深く感謝致しているところです。

今日の日本の平和は、御英霊の礎の上に築き上げられたのでありますが、ひとたび、世界に目を向ければ民族紛争や宗教対立により、幾多の内戦や虐殺が続いています。また、一昨年九月十一日のアメリカ同時多発テロ事件以来、世界の各地でテロが頻発しております。世界の火薬庫と言われる中東地域では、明日にも戦争が起こりかねない緊迫した状況が続いています。

私たち遺族会壮年部はこうした現状の元で、日本は基より世界で二度と、あの悲惨な戦争が起こらないよう、また、妻や子を再び不幸のどん底に落とさないためにも、世界に強くアピールするとともに、命の尊さ、戦争の悲惨さ、平和の有り難さを子々孫々に語り継ぐことと致します。

終わりに臨み、護国神社の神前において御英霊の安らかに鎮まりますことを心よりお祈り申し上げます。

 

平成十五年三月八日

安濃町遺族会壮年部

代表 斎藤 孝夫


 追悼の辞

本日ここに「安濃町遺族会壮年部護国神社昇殿参拝」が、とりおこなわれるにあたり謹んで追悼の言葉を捧げます。

早春のこの時期英霊の御霊の慰霊と鎮魂を祈るため、ここ三重県護国神社のご神前に昇殿参拝を執り行っていただきましたことは私たち遺族に取りまして、誠に有り難く関係各位のご尽力に改めて厚く御礼申し上げます。

さて先の大戦から早五十八年余りの歳月が経ちました。

英霊の皆様方の奥様もその大半が皆様のお側へと旅立たれました 私たち遺児も殆どが還暦を過ぎ年嵩のひとはすでに七十路にさしかかっております。戦後の混乱期の復興を経て、日本の高度成長の時代をそれぞれに精一杯生きて参りました。いまこうして私たちが無事に今日を迎えられますのも、ひとえに御英霊の皆様方のご加護があってのことと深く感謝いたしております。

顧みますれば、御英霊の皆様には過去の戦において祖国日本のためまた郷土の安泰と肉親の無事を心に念じながら、激しい戦火の中で無念の最期を遂げられました。御英霊の皆様方一人ひとりのお心に思いをいたすとき、永遠の深い悲しみと痛恨の念が胸にこみ上げてまいります。

私たち遺族はこの思いを忘れることなく胸に抱き、あのような悲惨な戦争を二度と起こすことのないよう渾身の努力をすると共に平和の有り難さを子々孫々に至るまで正しく語り継ぐことを固くお誓い申し上げます。

終わりに臨み、ここ護国神社の大神の御前に額ずき御英霊の御霊の安らかならんことを心からお祈り申し上げ、追悼の言葉といたします。

 

平成十六年三月六日

安濃町遺族会壮年部

代表 黒川 清司


第三回 三重県護国神社

 昇殿参拝の辞

梅の花咲く今日のよき日、崇髙なる三重県護国神社におきまして安濃町遺族会壮年部遺児昇殿参拝の儀を関係者のご厚意のもと、このように厳粛に執り行われますなかで、私僭越ながら遺児代表と致しまして申し上げることをお許し下さい。

月・日の経つのは早いものです。私達は年を積み重ね、いつの間にか、髙齢の遺児となりました。

御霊をお守りする心は将来も変りませぬが、加齢につれ体力の衰えを避けることはあり得ません。これからの時代を継いでくれる子、孫らに私達の今の心を申し伝えて行くことのできる環境を少しでも作りたいと思います。

さて先の大戦に父達はお国のためにと一つ屋根の下で、貧しくても、楽しい日々を、ともに暮す家族と別れ、応召の果て、望郷の念の戦地で散華され、はや六十有余年となります。苦しいときの相談相手を失い、残された私達遺児の家族は船頭のいない古びた船の中に取残されてどこまで流されるのか極度の不安の連続でありました。

次代の流れと共に幸いにして地域の方々、関係団体のご尽力とこの町遺族会の並々ならぬご活動のおかげで難破もせず、今こうして平穏に暮らすことができます。

私は毎月の一日の早朝に、地元町内の神社に置かれた靖国望郷の祭られている英霊館に出かけまして戦没者方々の写真が掲げられました御霊と、無言のお話を致しております。その都度、戦争へと否応なしに駆り立てられた末の玉砕の無念と悔しさが伝わってまいるのです。

そしてご英霊の方々のご冥福を祈願しつゝ、今の平和な世は、その人々の犠牲の上でありますことを感謝申し上げるのでございます。

私達は遺児一世と思います。

髙齢による不安を払拭するためには次世代を担う子々孫々へ慰霊の心を大切にするように、何んらかの方法で伝承しなければなりません。

例えば、遺族会諸行事への遺児二世たる青少年の積極参加を呼びかけるのも一つの方法と思います。そして一世と二世が手をとりあって我が郷土、安濃町がより一層住みよい活力ある町へと発展させるに併せて私達の諸行事もゆく末永遠に仲よく慰霊できるようになるのではないかと楽しみにして居ります。

最後に御霊の御冥福を念じますと共に、私達遺児の一層の多幸を祈願しまして参拝の式辞とさせて頂きます。

 

平成十七年三月十二日

遺児代表

藤髙 智


 慰霊の辞

ひと雨ごとに暖かく、早春の季節となり、本日こヽに三重県護国神社の御霊の御前に於て安濃町遺族会壮年部第四回参拝を行うにあたり、遺児を代表して謹んで慰霊の言葉を述べさせて頂きます。

私事でございますが、父は私が一才の時、ビルマインパールにて帰らぬ人となりました。私は父の記憶はありません。残された写真と家族への手紙で知るのみでございます。

菰野の連隊からのすべての手紙には検閲済の印が押してあります。思っている事、知らせたい事等たくさんあったと思いますが、検閲の為、ほんの一部しか書けなかったと思います。

母への手紙には必らず書いてある言葉があります。家業の農業の心配、そして家族は元気か、病気はしてないか、子供の風邪は治ったか、子供を頼むぞの言葉であります。

最後に、子供を連れて面会に来てくれで終わっています。

家族を残し、戦地におもむき、異国の地で食糧も飲み水もなく、病におかされた時、家族を思い、故郷を思い、本当にくやしかっただろうし、情なかったと思います。

私自身、妻と二人の子供、三人の孫に恵まれ、幸せな生活をしております。父の家族への胸中を察すると万感胸に迫る思いです。

私達が今自由と平和を元に平和を築いているのも、我が身をかえりみず祖国を護り、礎へとなられたご英霊の尊い犠牲があったからこそと、感謝の念で一ぱいであります。

この事を子から孫へと伝え、この平和な日本の永遠の安泰と繁栄を、さらには戦争のない社会を作る為、一層の努力をする事をお誓い申し上げ、慰霊の言葉とさせて頂きます。

 

平成十八年三月十二日

津市安濃町遺族会

遺児代表

和田 弘


 追悼の言葉

梅の花も満開に咲き春も近くに感じる季節になってまいりました。

今年も、故里安濃町の戦没者の子供たち全員に呼びかけ、ここに一同に集まり護国神社の父の皆様方に会いに参りました。皆様の御英霊を謹しんで追悼申し上げます。

戦後六十二年が経過した現在、女で一人で私たちを育ててくれたお母さん方も町内で十八名のご存命のみとなっています。また、私たち遺児たちも、遺児と言われるのも恥ずかしい年令になり、みんな、すでに還暦を過ぎ平均年令も七十歳近くになってまいりました。御英霊の父たちのお守もあり私たち元気で暮させてもらっています。御安心下さい。

現在、わが国も豊かで平和な時代が続いています。このような時代に暮らす中で、お父さんが出征されてから、あの戦中・戦後の厳しい時代母と子供たちが肩を寄せ合い、父の亡い苦しさ、つらさ、弱さ、食べる物も十分に無くヒモジかった事・貧しかった事そしてさみしさ・悲しかった事・くやしかった事、人一倍味わいながら母が頑張りぬいて育ててくれた事などややもすれば、忘れがちになってきています。母の気持を心の柱として決して忘れてはならないと思います。

遺族会も、正会員・準会員とも徐々に減少していく昨今ですが、私たちは、こんなに多くの戦死者と遺族や遺児を出した痛ましい戦争を二度と繰り返さないよう英霊の顕彰を続けることを通じて後世に、訴え続けていくことをお誓い申し上げますとともに、ご英霊の皆様方には安らかなお眠りをいただきます事をお祈り申し上げ追悼の言葉といたします。

 

平成二十年三月九日

遺児 野田 征生


 追悼の言葉

梅の花も咲き春も近くに感じる季節になってまいりました。

本日は安濃町の遺族会の役員と戦没者の子供たち全員に呼びかけ、ここに一同に集まりお父さん並びに戦没者の方々に会いに参りました。

光陰矢のごとし、戦後も六十三年が経過しました、女で一人で私たちを育ててくれたお母さん方も近年多くの方々が亡くなられています、町内で十五名のご存命のみとなりました。

また、私たち遺児たちも、遺児と言われるのも恥ずかしい年令になり、みんな、すでに還暦を過ぎ平均年令も七十歳近くになってまいりました。

私たちは、現在こんなに平和な時代に暮らす中で、お父さんが出征されてから、老いた祖父母と母と子供たちが肩を寄せ合い、必死に働き皆さんが帰ってきてくれることを信じつつがんばってまいりました。戦後は、食べる物も十分に無くヒモジかった事・貧しかった事・さみしかった事・悲しかった事・くやしかった事など、ああ、ここにお父さんが居ってくれたらなあと幾度思ったことなど、平和な今、ややもすれば、忘れがちになってきています。また、子供や孫たちに話しても、おとぎ話ぐらいしか理解してくれませんが機会あるごとに語っていきたいと思っています。

遺族会も、正会員・準会員とも徐々に減少していく昨今ですが、こんなに多くの戦死者と遺族や子供たちを出した痛ましい戦争を二度と繰り返さないよう私たちは、英霊の顕彰を続け、このことを通じて後世に、訴え続けていくことをお誓い申し上げますとともに、今の平和を命を張って築き上げていただいたご英霊の皆様方に感謝をし、安らかにお眠りをいただきます事をお祈り申し上げ追悼の言葉といたします。

 

平成二十一年三月十日

長野 利隆


 追悼の言葉

梅の花も咲き誇り春も間近に感じる季節になってまいりました。本日は安濃町の遺族会役員と戦没者の子供たち全員に呼びかけ、ここに一同に集まりお父さん並びに戦没者の方々に会いに参りました。

戦後六十四年が経過した現在、女で一人で私たちを育ててくれたお母さん方も近年多くの方々が亡くなられています、町内で十二名のご存命のみとなりました。

また、私たち遺児たちも、遺児と言われるのも恥ずかしい年令となり、みんな還暦も過ぎ平均年令も七十歳を超える齢となってまいりました。

現在、わが国も豊かで平和な時代に暮らさしていられるのも、お父さん並びに戦没者はじめ多くの方々の犠牲者のもとに今の平和があると言っても過言ではありません。

遺族会も、正会員・準会員とも徐々に減少していく昨今ですが、私たちは、こんなに多くの戦死者と遺族や子供たちを出した痛ましい戦争を二度と繰り返さないよう英霊の顕彰を続けることを通じて後世に、訴え続けていくことをお誓い申し上げますとともに、ご英霊の皆様方には感謝の祈りをもって安らかにお眠りをいただきます事をお祈り申し上げ追悼の言葉といたします。

 

平成二十二年三月十日

稲田 英夫


【美杉町竹原地区戦没者慰霊祭】


 祭文

梅花漸く綻び、草木の芽も萌んとして早春の季節となりました。

本日茲、護国神社の神前に竹原地区出身戦没者八十九柱の招魂祭を執行するに当り、竹原地区を代表して祭文を捧げ、謹んで崇敬の誠を捧げます。

兄等はさきに日清、日露の戦役に、且つは大東亜戦爭に際し、国安かれ、民よ安泰なれと勇躍征途に赴かれ尊い神魂と化せられたのであります。今、兄等の尊い心意気を想い起こし、其後幾星霜、その面影に接するを得ませんが、偉大にして崇髙なる業績は悠久に消え去ることなく、そのみたまは祖国の父として永く靖国の奥深く鎮りますことでございましょう。

今こヽに御列席賜ります御遺族の御心情を推察申上る時、只々感慨無量なものが御座います。其後、幾多の苦難のいばらの道を耐え忍ばれまして、今日では御子様方も健やかに御成人遊され、或は学園、或は職場に社会人として御成長なされたので御座います。

今や戦后二十年、故國日本の再建なり、平和国家の一員として総力を挙げつヽありまして、名実共に政界の中枢國として日本の重要性は益ヽ向上しております。これも皆、尊い兄等の遺業に外ありません。吾等も亦、尊い兄等に対し、お應え致し度いと御誓い申上るものでございます。どうか靖國の神として吾々のさヽやかな営みを永久に御守護下さいますよう、希くは、在天の英魂来りうけられん事を。

 

昭和四十年三月五日

竹原区長 岡田三郎