慰霊祭祭文
-津安芸地域-
三重縣護國神社で行う慰霊祭では、参列者の代表が祭文を奏上する次第ある場合があります。
その一部をご紹介します。
祭文は「祭文」から始まるのが通例ですが、「祭詞」や「祭辞」、「追悼文」、「追悼の辞」、「慰霊のことば」等という文言から始まるもの、いきなり本文から始まるものがあります。尚、祭文の原文を尊重していますが、文意を損なう明らかな誤字については一部訂正しました。
【津市戦没者遺族会慰霊祭】
祭詞
本日茲ニ全津市ノ英靈並ニ戦災ノ為犠牲トナラレマシタ方々ノ御霊ヲオ招キ申上ゲ慰霊祭ヲ斎行致シマスルニ当リ、謹ンデ御霊ニ感謝ト哀悼ノ誠ヲ捧ゲマス。
顧ミマスレバ、明治ノ御代カラ今日マデ我國ガ歩ンデ来タ道ハ多難極マルモノデアリマシタ。幾度カ止ムニ止マレヌ戦争ノ試練ニ遭遇シ、ソノ度毎ニ幾十万ノ同胞ガ陸ニ海ニ又空ニ如何ニ尊イ血ヲ流シ、如何ニ夛クノ骨ヲ埋メラレタコトデアリマショウ。今次ノ大平洋戦争ガ皆様方ノ尊イ犠牲モ、ソノ甲斐ナク敗戦ノ憂目ヲ見タノデアリマスガ、身ヲ捨テ家ヲ忘レテ、御國ノ難ニ赴キ、千辛萬苦ヲ嘗メ盡シ、遂ニ雄圖空シク戦場ノ華ト散ラレタ皆様コソワ遺烈萬世ニ輝クトワ申シナガラ、誠ニ悼マシイ限リデアリマシテ、私共ハ今モ尚従容トシテ國ニ殉ゼラレマシタ皆様方ノ最後ノ雄叫ニ胸ヲエグラレル思イデキクノデアリマス。コノ痛恨ヤルセナイ皆様ノ御霊ヲオ慰メ申上ゲ感謝ノ誠ヲ致シマス事ハ私共ノ切ナル悲願デアリマシテ、今日心カラ慰霊ノ誠ヲ捧ゲ、御遺族ノ方々ヲオ招キシテ社頭對面ノ御縁ヲ結バセテ戴キマスル事ハ、私共ノ限リナイ喜ビトスル所デアリマス。今日我國ハ世界ノ平和ト人類ノ福祉ノ為メ、進ンデ寄與セネバナラヌ秋デアリマスガ、世局ハ極メテ多事夛難デアリマシテ、我國ノ前途モ決シテ坦々タル道デハナイ事ヲ痛感スルノデアリマス。私共ハ此秋コソ、平和ノ礎トナラレタ御英霊ノ心ヲ心トシテ相携エテ、平和國家ノ建設ニ邁進致シタイト存スルノデアリマス。
今日皆様方トハ幽明境ヲ異ニシテイマシテモ、皆様方ノ御肉身ハ夢ニモ皆様方ヲ忘レラレタ事ハナク、只今モ嘸カシ此祭儀ニ列シテ皆様ノ在リシ日ノ御姿ヲ瞼ニ浮ベアリアリト皆様方ト姿ナキ声デオ遇イニ成ラレタ事ト拜察スル時、胸迫ル思イガ致シマス。今日ノ慰霊祭ニ付テハ何カト至ラヌ亊モアルト存ジマスガ、ドウカ私共ノ切ナル思ヲオ享ケ下サイマシテ、國家の御柱、郷土津市ノ護リ神トシテ永ク安ラケクオ護リ下サイマス様、真心コメテ御祈リ申上ゲル次第デ御座イマス。
昭和三十四年三月廿二日
津市民慰靈祭
祭典委員長 白井虎雄
謹シミテ白ス
祭文
時は維れ、昭和三十六年三月十九日、畏くも三重県護國神社の大前にて津市氏子会主催の下に津市内出身の戰歿者の春季慰霊大祭を執り行うことになりました。
殉國の御英霊として仰がれる戰歿将士の方々は、遠くは明治戊辰の役より又、日清、日露の両戰役及満州亊変、近くは昭和十二年の日支亊変から大東亜戰爭に際し、召に應じて勇躍出征せられ時には、凛烈肌を劈くような寒さに抗し、北支から遼東の地に砲煙彈雨を冒して奮戰、屍は山を築き、血は流れて川をなすの激戰を交へ、或は炎熱骨を溶かす南洋の諸群島に屯して、克く困苦缺乏に堪え忍び、物量を恃む敵が海空よりする爆彈の洗礼を受けながら、転戰幾たび、皇御國のために死を鴻毛の輕きに置いて善戰、苦闘、赫々たる勳を樹てられ敢なくも異郷の空に華と散られた勇士であります。
その壮烈なる報國の精神とその芳烈なる勲功とは、千秋万古青史に炳として燿き永へに泯滅しないのであります。
不幸にして大東亜戰は敗れたと云うものの今や、吾が國は民主國家として起ち上り、文化の進展、経濟力にも恵まれ、自由、正義、平和を旗印として國際的地位の向上とわが國、永遠の礎を築くと共に世界の平和の上に寄与する立場を形成するに至ったことは、是れ全く戰歿将士各位の殉國の犠牲となられた賜に外ありません。
本日の大祭に臨み、聊か所懷を披瀝して感謝の誠を捧げ、御霊を慰め申上げます。
冀くば安じて地下に瞑目せられんことを御祈りいたします。
昭和三十六年三月十九日
津市氏子会總代
堀川 茂三
敬白
祭詞
昭和三十七年三月十八日畏くも三重県護国神社の御大御前に於て津市における戰爭犠牲者の春季慰霊祭を斎行するに当り、虔んで殉國の御英霊に對し報恩感謝の誠を捧げると共に追悼の詞を呈します。
御英霊の皆様方は、曽ての戰爭に召に應じて勇躍出征せられ、時には冱寒凛烈肌を劈くような中支遼東の山野に、或は炎熱骨を溶かすような南洋の島々に幾たびとなく転戰され砲煙漲ぎり、彈雨飛び来る中を物ともせず、勇敢なる進攻作戰の下に破竹の㔟を以て敵陣に迫り、身を鴻毛の軽きになぞらえ奮戰激闘屡々敵の心胆を寒からしめる赫々たる勳と功を樹てられ、義烈勇武のほどを讃へられたのであるが、遂に敢なく異國の空に華と散られたことは、惜みても尚ほ余りある次第で、返す返すも邦家の爲の残念の至りであります。
然しながら、東亜戰爭の終局は物量を誇る対手國の軍門に降らざるを得なかったのでありますが、終戰後の我が國は幾千もなく獨立國家に蘇り、政治、経濟、文化等、一連の大革新を目指す民主國家としての基盤と礎石が築かれるに至ったことは、これ一つに御英霊の滅死奉公の烈々たる精神と一死殉國の脈々たる心魂とが、全世界に軣き、武威を海外に発揚した結果に職由する所であります。
敗れたとは雖も、今や日本の経濟も大に伸び、國力も益々増大し、吾國の一挙手、一投足が世界各國の注視の焦点となり、國際連盟の舞台における立役者として重要な役割を果し、世界恒久の平和樹立の上に寄與貢献するの時運に進みつヽあることは、御英霊の遺勳芳烈に起因するものと信ずるものであります。
冀くは安んじて瞑目せられんことを。
昭和三十七年三月十八日
津市氏子総代会々長
堀川 茂三
敬白
祭詞
豊穣の秋の一日を卜し、時あたかも終戦二十周年に当り、本日ここに津市遺族会主催による戰没者追悼慰霊祭が執り行なわれますに当り、謹んで御英霊に感謝と哀悼の意を表します。
憶うに皆様は幾度の大戦により武運拙なく祖国に殉ぜられた戦士であり、在りし日を偲び、当時の御心中をお察し申すだに、胸が痛む思が致します。更に一家の支柱と頼む尊い生命を又、いとしい肉親を戦争の犠牲として失なわれた御遺族の方々の身に思をいたすときは、唯々断腸の思であります。
戰争の惨禍ほど悲惨なものはありません。今は國民斉しく永遠の平和を心から念願致して居ります。
幸い我國は、戦後目ざましい復興と繁栄を遂げましたことは、皆々様の御霊の加護と国民の自覺と献身の賜と確信致して居ります。
吾が津市も燒土の中から立ち上り、今では、大、津市の建設に努力して居ります。
なお、御遺族の方々も、譽髙き御家族として御幸福な日々を御送りになって居られますから、何卒心安く冥せられんことをお祈り申します。
終りに、本日の追悼慰霊祭を執り行なわれました主催者並びに関係者各位の御労苦に対し、衷心より深く感謝の意を表しまして、祭詞と致します。
昭和四十年十月一日
津市長 角永 清
祭詞
本日多数のご遺族をお迎えして津市自治会連合会主催、津市氏子会協賛、津市婦人会、津市氏子青年会後援により盛大なる慰霊祭がとり行われますに当り、謹んで御霊に対し報恩感謝の誠を捧げます。
今静かに瞼を閉じ過ぎし日をふり返ってみますに過去幾多の戦役に唯々勇躍故国を後に出征せられた勇士の元気なお姿や武運拙なく白木の箱で凱旋せられました戦士のお姿等度々脳裡によみがえり、誠に感無量でございます。又年々相営まれますこの慰霊祭に追慕の情も新たに心から御霊とご対面されますご遺族の方々のお姿に接し、今日までの数々のご労苦を思いますとき、悲運の定めにそぞろ哀悼の涙を禁じ得ません。
しかしながら、当市も市民各位のご努力によりあの終戦の悪夢より立上り大部分が焼土と化した市街地を復興し、見違えるばかりに発展し県都として恥じない新しい都市に発展しましたことは市民ひとしく喜びに存ずるところであります。これひとえに、あまた英霊のご加護の賜であると信じ、ここに重ねて感謝の誠を捧げる次第であります。私達は二度と再びあの様な悲惨な爭いを招くことなく明るい郷土の建設に努力することをお誓い申しあげます。
願わくは、今後共、ご遺族の上により幸せの訪れをこいねがい、我が郷土の発展を末長くお守り下さい。
最後に本日の慰霊祭をとり行われました主催者並びに関係者各位に対し衷心より感謝と敬意を表しまして祭詞と致します。
昭和四十二年三月十九日
津市長 角永 清
祭詞
本日茲に多数のご遺族ご参列の下に津市戦没者慰霊祭を斉行するに当り謹んで殉国の英霊に感謝と哀悼の誠を捧げます
かえりみますれば、あの激烈悲惨を極めた戦爭に勇躍参加せられました皆様方は祖国の平和とご家族の幸福をねがいつつ、広大なる戦域に勇戦奮闘せられ、数々の武勲を樹てられたのでありますが、武運拙なく大陸の山野に或は、南海の果てにと散華せられ思い起すたびに惜別の念やるかたないものがあります。
しかしながら敗戦を迎えてから既に二十有余年の歳月が流れ、その間、皆様方のご遺族をはじめ国民一丸となって荒廃した郷土の復興に努力せられましたことは、誠に涙ぐましい限りであります。
か弱い妻子を或は年老いた父母を残して黄泉の旅に立たれた皆様方の心残りは又ひとしおであったと御推察するものであります。しかし、ご覧下さい、皆様の尊い犠牲は決して無駄ではありませんでした。民主国家として生れ変った我が国は大戦による痛手も見事に克服し平和な文化国家として日々躍進しつつあります。
年老いた方々に対する福祉制度も年を追って改正され、又、残された遺児の方々も既に立派に成長せられ、現代日本の若木として大きく育ち、それぞれの分野で国土発展のため活躍せられ、一面焼土と化したこの津の街も戦前を遥かに凌ぐ発展ぶりを見せております。
これひとへに祖国のため尊いいしずえとなられた皆様方のご加護のたまものと深く感謝するものであります。
ここに改めて皆様方のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族のたゆみないご活躍をとはにお守り下さらんことを念じまして祭詞といたします。
昭和四十二年三月十九日
津市慰霊祭執行委員長
岡山 彦松
祭文
秋の香り靜かに漂うこゝ護国神社の二六〇〇柱の津市遺族会の例祭が夛数の御来賓の御臨席を得て嚴かに取り行われるに当り遺族を代表して謹んで祭文を奏上致し度う存じます。
戦後も早や四〇年を数へました、当時只々ひたすらに祖国の繁栄といや栄をそして、私等の幸福を一途に不屈の精神と人間極地の苦しみを最後に尊い命を失われ永遠に帰らぬ皆様を思う時、愛惜の念一入切なるものがございます。
肉身を失った私等遺族の悲しみは例へ幾一〇年、幾百年たとうとも決して尽きるものではございません。私達の此の四〇年の長い年月は悲しみの中に悲しみを負ひ、苦しみの中に苦しみを負う、言葉には尽せぬ毎日ではございましたが、肉身は遺族は互ひに励し合ひ助け合って、皆様方答へるべく顔で笑って心で泣いた努力と精進の毎日でもございました。お蔭様で私等の処遇も年々考慮され、今年はあの大きな特別弔慰金も市、県の御厚意により、市段階の申請を終る事が出来ました。感謝と共にホッと一息つきながら、趣味を生した一日や地域の福祉にも参加出来る今日此の頃の私等でございます。何卒御安心頂き度う存じます。皆様方お心残りの我国の行方は今や世界の先進国として素晴らしい前進を續けております。此の平和と繁栄こそは皆様方の尊い礎の上に築かれたものである事を私等日本人は決して忘れてはならないと思うものでございます。「戦没者を追悼し平和を祈念する日」である八月一五日には總理は始めて公式に靖国神社に参拜され「感謝と平和と繁栄」を祈念されました。私等遺族のよろこびは如何許りであった事か嬉し涙を止める事は出来ませんした。でも秋の例祭には意のまゝにはならず、私等の淋しさは格別でございます。しかし四〇年の節目の残り少い人生の一コマとして今後はますます内外の試練に覚悟を新にして一丸となっての努力こそ期待されるものと信じます。戦争の悲惨さは遺族でなければ判らないと思ひます。
私等は今日皆様方の御冥福を祈り平和への決意をさらにさらに新に致しました。今後は皆様方の心を心とし人類の平和と福祉を希望する世界の人々を思ひ私等なりに努力する覚悟でございます。何卒何時までも私等をお守り下さいます様、そして安らかにお眠り頂きます事を祈念して祭文と致します。
昭和六〇年一一月一日
津市遺族会婦人部長
山口 よしゑ
水ぬるむ陽春の候、ここ三重県護国神社の大御前におきまして津市戦没者慰霊祭が盛大に取り行われるにあたり、御多忙中のところ津市助役様始め、多数のご来賓のご臨席を仰ぎ、津市遺族会皆様方ご参列のもと、遺族会青壮年部を代表して謹しんで、ご英霊に追悼の詞を申し上げます。
今日の日本発展の礎となられた御英霊、現在この幸せな日本の糧となられた尊い犠牲を無にしないため我々は歯をくいしばり、血のにじむような苦労をしてがんばってまいりました。
戦後のどん底時代、父亡きあとの新しい幸せな家庭を築くために戦争未亡人のお母さん達は乳呑児を抱え、一家を支え全力で働き、私達遺児を立派に育ててくれました。
靖国に眠る御英霊、亡き父に対し、堂々とお話しし合える偉大なるお母さん方の苦労によくがんばったと心から称えたいと思います。
戦没者遺族の高令化が進む本会の現状をみるとき、その後継者たる青壮年部への期待は益々高まり、その責任は重大であります。
青壮年部はこの現実を深く認識し、後継体制を確立し、本会の諸活動に積極的に参画して研鑽に努めます。
英霊顕彰運動の推進として総理大臣の靖国神社公式参拝の定着をはかる為、ひき続き八月十五日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に重点を置き、政府自民党に対し、靖国神社公式参拝を強く要請する運動を実施します。
戦没者遺族の処遇改善、恩給法関係、公務扶助料、年金等引き上げも嬉ばしいこと、遺児記念館建設も嬉ばしいことですが、私は声を大にして訴えたい。
日本の総理首相はどうして公式に靖国参拝してくれないのでしょう。亡き父の遺志を受け継ぎ生き拔いた母親達は年をとり最近はお亡くなりになる母親が目立ちます。
草葉の蔭で父も嘆いていることでしょう。いろいろと困難なこともあるでしょうが、素直な気持ちになって公式参拝出来なければ、お父さんやお母さんを今すぐ返して下さい・・・
青壮年部は組織の強化拡大はもとより平成七年(終戦五十周年)以後は、本会組織の継承をめざし青壮年部、平成七年に向けて総仕上げに邁進します。
遺骨収集は重要な事業であり、引き続き積極的な参加協力をします。
戦没者遺児による慰霊友好親善事業では昨年度から実施拡充していますが、希望する遺児の参加ができるよう一層の運動をして世界に目を向け、平和運動を実践します。
選挙対策の本会推薦候補への強力な運動、英霊にこたえる会の行事参加と行動、全国戦没者追悼式への参列、護国神社春秋慰霊大祭での奉仕作業活動その他、目的達成の為、本会後継者としての役割を果たしたい方針であります。
平素は市当局や関係各位の皆様方には手厚い慰霊の行事、その全般にわたりご高配、ご支援を賜わり遺族一同心より感謝申し上げる次第でございます。
先の大戦がもたらす悲しさ、苦しさは身をもって味わった私達が一番よく知っております。今後は遺族が結集して二度と過去の犯ちをくり返さぬよう断固して平和を守り拔くことをここにお誓い申し上げます。
おわりにあたり、ご英霊のご冥福を心からお祈り申し上げ追悼の文といたします。
平成四年四月四日
津市遺族会青壮年部
久世 正勝
祭文
風薫る新緑のすがすがしい五月。恒例の津市遺族会慰霊祭が御来賓の皆様をお迎へして遺族参列の本に、おごそかに行われます。
今年は二十世紀最後の年です。又、戦後五十五年と云ふ節目の年でもあります。わたしたちが皆苦労と悲しみで生き抜いて来た今世紀最後の年です。
来年からは、新しい年となりますが、戦爭と云ふ人類の業の様な事が二度と起こらないで、犠牲となったのは英霊の皆様や私達遺族です。
大事な子供や孫に平和な時代が続く事をお願いします。平和と云ふ事は素晴らしい事ですが、其の犠牲者も忘れないで下さい。
今は戦爭も風化され、戦爭を知らない世代と代替りをして居りますが、英霊の顕彰、遺族の福祉の向上、又靖国神社への公式参拜の實現と永久の平和を祈ると同時に戦没者に感謝の誠を捧げる、英霊の皆様きっときっと實現されます事をお願いします。
明日十四日は母の日です。貴方がたが出征の時には、お腹の中にゐて、男の子から女の子かとも分らず、又、一目我が子を見たい父、又、一目見てほしい母の切ない氣持もこれが永遠の別れとなった私達ですが、今は立派に成長をして素晴らしい子供達です。其の子供達も頭が少し白くなり可愛いヽ孫も出来てゐます。母を助け又、母は子供に人一倍の愛情をそそいで大事に育てあげた頼もしい壮年部の皆様有難う。よく頑張った母達も殆どが八十才前後となり折角のお招きにも出てこられず、又、病院での生活の方もあると思います。今日は其の壮年部の方々といっしょに慰霊祭です。
英霊の皆様、どうか心靜かに御安心下さい。
まだまだ一生懸命に頑張ってゐる私達、これからも健康で幸多い事をお守り下さい。
平成十二年五月十三日
津市婦人部長
川北 冨美
追悼のことば
平成十四年度津市戦没者慰霊祭が、津市遺族会主催により、御遺族ほか関係者多数の御出席のもと、厳粛に開催されますにあたり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
先の大戦において、御英霊となられました戦没者の皆様方が、祖国や家族のために、一身をも顧みることなく、辛酸の戦火の中に散華されましたことは、いまなお私たちにとって、忘れることのできない深い悲しみでございます。
また、最愛の肉親の方をなくされた御遺族の戦後の労苦は、私たちの想像を越えたものがあり、在りし日の御英霊のお姿を偲びますとき、皆様方には万感胸迫るものがあるものとお察し申し上げます。
終戦から既に半世紀以上が過ぎ去りましたが、その間、我が国は目覚ましい経済発展を遂げ、国際社会においても、世界の先進国家の一員として歩み続けてまいりました。
郷土津市におきましても、数次の激しい戦災の爪痕を克服して、今日の繁栄に至っております。
これひとえに、戦没者諸霊の御加護と御遺族の方々の御努力のたまものにほかなりません。
私たちは、御英霊となられた方々の尊い犠牲の上に築かれたこの平和と繁栄を、又戦争の悲惨さを次の世代に永遠に伝えていくためにも、恒久平和への誓いを新たにし、改めて戦没者の方々の御冥福と御遺族の皆様方の御多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成十四年四月十一日
津市長 近藤 康雄
代読
風薫る若葉の候、本日此処三重県護国神社の大御神前に津市福祉保健部長小管賢浩様始め多数のご来賓各位の御臨席を仰ぎ、津市戦没者慰霊祭が盛大に執り行なわれるにあたり遺族会を代表して謹しんで祭文を申し上げます。
我が国にとって決して忘れることができない先の大戦では、約三百万名の尊い命が奪われています。
今、日本は物も豊かになり、生活も便利になり、経済的にも豊かになりました。しかし、尊い命をおとして犠牲になられた御英霊の方々の日本国への思いというものは何だったのでしょうか。
戦没者遺族の集いに年々お母様方の出席が少なくなり、未亡人の平均年齢は八十五才と高齢化が進み、その人数も段々と減少しているのが現状です。
戦争の悲惨さが年々忘れられようとしています。父を失った戦後、我々の生活は大変厳しいものであり、苦労ばかりの母と手をとり合って、歯をくいしばってがんばってまいりました。母も平成八年に八十三才で父の元へと旅だっていきました。
二度とあの過ちをおこさない信念のもと、ひたすら真に豊かな平和がいつまでも続くよう心から願うものであります。
我々は光輝ある組織を継承し、御英霊の顕彰、戦没者遺族の福祉向上に更に努力して、次に掲げます事柄を早急に解決すべく、お誓い申し上げます。
処遇改善運動、平成十五年に最終償還を迎える「戦没者等の妻並びに身寄りのない父母等に対する特別給付金」の継続増額について国として、その精神的痛苦に対し、慰籍の意を表わするため、平成十五年以降も継続するとともに、現在の社会情勢に見合った額に増額されるよう運動を推進します。
英霊顕彰活運動、総理閣僚の靖国神社参拝の継続定着運動の具体的な推進であります。
小泉総理は昨年八月十三日に靖国神社に参拝され「二十一世紀の初頭にあって先の大戦を回顧し戦争犠牲者の方々全てに対し深い反省と共に謹しんで哀悼の意をささげ内外の人々がわだかまりなく」と決意表明されました。
総理大臣は昨年に引き続き、本年も靖国神社に参拝を実行され定着すべきです。毎年、靖国の問題は全く禮を失した問題ばかりでもっと魂というものを大事にしなければ、我々遺児としては誠に残念であると同時に、遺憾そのものであり、心静かに鎮魂のお参りをするという姿に帰してもらわなくてはなりません。
以上の諸問題に対し、誠心誠意努力することをお誓い申し上げます。
最後になりましたが、護国神社の社よりお守り頂く戦没者の御霊の冥福を謹しんでお祈り申しあげると共に関係機関、関係各位でのご支援の支えがあってこそで、深く感謝申し上げ、私の祭文とさせていただきます。
平成十四年四月十一日
津市遺族会壮年部
久世 正勝
祭文
御来賓の皆様を御迎して津市遺族会慰霊祭が行はれます。今年はみたまに嬉しい御奉告をさして戴きます。一つは創立五十五周年記念式典に天皇皇后两陛下に御臨席を戴きました。二つ目は中曽根総理の参拝より十七年振りに小泉総理大臣が今年で三年連続で靖国神社へ参拝されました。これからも之が定着するとよいがと思います。三つ目は、私達が陳情に陳情を重ねた妻特給が継続増額になった事です。全国十八万三千人の妻が一せいに小泉総理に御礼の手紙を書きました。昨年十二月十九日に九段会館で全国遺族大会があり、津市も十名参加しました。
其の時に、古賀誠日本遺族会会長が「軍国の妻。又母として銃後を使い分けて守って半生期、苦労ばかり多くして報いられる事の少なかった妻に特別給付金は国の慰藉として英霊に代って贈り続ける、之が国の責任である」と云う古賀会長の力強い切々たる遺子ならではの言葉に会場あふれんばかりの遺族婦人部の拍手、感激の涙、涙、嬉し泣きの一瞬でした。手を取り合って泣いてゐる婦人部の姿に壇上の各代議士も此の光景に固唾を飲んで見守って居ました。私には之は当り前の事だと思ってゐられる様に見へました。こんな立派な子供達に成長して有難う苦労したのは母ばかりでなく子供も一緒に泣き笑いの五十七年よく頑張りましたが、母の平均年令も八十六才となり、その頑張りも出来なくなりました。一昨年妻と壮年部が妻の實体調査をしました。三重県で三、八〇〇人、津市は二六六人です。寐た切り一人暮しも統計をとりました、一〇〇才の人も一人あり大正二年、三年生れの人が一番多くて一〇〇人近くあり、明治生れから昭和生れもあります。入院といふ人も多くやむなく一人暮しをされてゐる人も多いです。明治生れの人は子供も四、五人あり、大変だったと思います。私も生後五十日と一才半の二人の子供两親戦災で家は無く、夜も寐ないでよく働きましたが、今思ふと若かったから出来たと思います、二十四才でした。此間、自分で本を出版されました青木会長の戦死をされました御兄様も結婚生活三十日で自分は二十才と書いてありました。若くして主人の後を守り戦後も五十七年となり、先の大戦の風化が懸念される中、日本遺族会の総力をあげての努力が実ったのです。今までは予算で遺族関係はずっと後の二十八、九日頃でした由ですが、今年はトップの二十二日の午後に決り、之も古賀会長の熱意、又日本遺族会の総力をあげての努力が実ったものと思います。折角今迄一心同体でやって来て四月一日が目の前にし乍らむなしく亡くなられた人が津市で三月中だけで八人もあり悲しい限りです。
今、世の中もイラクの毎日の悲しいニュース、私には人事に思へません。早く終決される事を祈ります。之からも私達母と子、一生懸命に生きて行きますから、どうか英霊の皆様御見守り下さい。
(平成十五年四月四日)
津市遺族会婦人部長
川北 冨美
追悼のことば
平成十六年度津市遺族会慰霊祭が、津市遺族会主催により、御遺族ほか関係者多数の御出席のもと、厳粛に開催されますにあたり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
先の大戦において、御英霊となられました戦没者の皆様方が、祖国や家族のために、一身をも顧みることなく、辛酸の戦火の中に散華されましたことは、いまなお私たちにとって、忘れることのできない深い悲しみでございます。
また、最愛の肉親の方をなくされた御遺族の戦後の労苦は私たちの想像を越えたものがあり、在りし日の御英霊のお姿を偲びますとき、皆様方には万感胸迫るものがあるものとお察し申し上げます。
終戦から既に半世紀以上が過ぎ去りましたが、その間、我が国は目覚ましい経済発展を遂げ、国際社会においても、世界の先進国家の一員として歩み続けてまいりました。
郷土津市におきましても、数次の激しい戦災の爪痕を克服して、今日の繁栄に至っております。
これひとえに、戦没者諸霊の御加護と御遺族の方々の御努力のたまものにほかなりません。
私たちは、御英霊となられた方々の尊い犠牲の上に築かれたこの平和と繁栄を、又戦争の悲惨さを次の世代に永遠に伝えていくためにも、恒久平和への誓いを新たにし、改めて戦没者の方々の御冥福と御遺族の皆様方の御多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成十六年四月六日
津市長 近藤 康雄
代読
祭文
櫻の花も滿開の護国神社に、今年も御来賓の皆様又会員一同で六万有余のみたまの御霊前で津市遺族会慰霊祭が行はれます。今年は新年早々に小泉首相が四回連続で靖国神社に御参拜戴き、こんな嬉しい事はありません。之からもずっと定着するとよいがと思います。
光陰矢の如しで、戦後も五十九年となり、父親の顔も知らなかった壮年部の方達も父親となり、又、今では孫も出来て父親の味はふ事の出来なかったおぢいちゃんと呼ばれ、頭も白くなり、主人も生きてゐれば、こんな姿だらうかと思います。昨年は婦人部結成五十周年の式典が、アストで盛大に行はれ婦人部会員二三七名全員に、壮年部の方達で記念品をお届け戴いて、有難う御座居ました。又、壮年部には三十回と云ふ長い間、母への感謝大会をして戴きましたが、昨年で最後となりました。三十回即ち、三十年と云ふ長い間の大会は全国でも類のない事と思います。今年は婦人部が一生懸命に陳情重ねた念願の特別給付金が断続、増額となり此の四月に第一回が支給となります。年を重ねた一人暮しも多い婦人部には、こんな嬉しい事は御座居ません。又、今年は来年十七年に終りとなります特別弔慰金も継続増額になります様、皆で頑張りたいと思います。来年からは壮年部と云ふ名称もなくなり、遺族会一本となります。英霊顕彰。慰霊友好親善。又、遺骨収集等々。一ぱいお願いしたい事ばかりです。戦没者の遺児は組織の後継者です。年老いた婦人部又、兄弟に変って今後もよろしくお願い致します。
御英霊の皆様、今此の様な不安な世の中が続いておりますが、私達遺族が無事に楽しく平和に暮らし行ける様、お守り下さいとお願いすると同時に、近況をお報せして、私の祭文と致します。
(平成十六年四月六日)
(津市幸町 川北 冨美)
祭文
平成十七年のこの良き日に津市戦没者のみたまの眠るここ三重県護国神社の大神前に公私共に御多忙の折、ご来賓各位のご臨席のもと、津市戦没者慰霊祭が厳かにとり行われますにあたり、津市遺族会を代表し謹しんで祭文を申し上げます。
本年は終戦六十周年の節目の年を迎えました。我々が今手にしている繁栄と平和とはを考え、日本人の誇りをもって、よりよき国を築き上げ、困難に殉じられた御英霊に改めて追悼の念を深くし、行く末永くみたまをお慰め申し上げたく存じます。過去の戦没者遺族の苦節と労苦に想いをいたすとき、万感胸に迫り痛恨の極みであり、先の大戦が悔やまれ、争いのない平和な世界の確立を祈らずには居られません。
御英霊の尊い犠牲を無駄にはできないと心に決め、「二度と戦争をおこしてはいけない」との基本を忘れることなく、これを後世に語り継ぐことが残された遺族をはじめ、我々国民の責務であると信じます。
時の流れとともにお歳を召された一人ひとりが充実した福祉のもと、安寧に暮らしていくことが、御英霊に安心して頂けることだと思います。
ここにある一通の手紙がございます。若くして戦死された方の戦地から母上様へと最後の便りです。
”お母さん僕も元気です。好きな煙草もようかんもあります。不自由なものはありません。安心ください。私も男です。立派にお国のために笑って散ります。お母さん、からだを大切に。私も病気にはならぬよう、気をつけて元気でやります。”
以上、このような犠牲者の悲しい便りを二度と聞きたくありません。
母の背中を見つめて育った私達遺児は、組織の中核として後継者である自覚の上で、積極的に活動推進していきます。
英霊の顕彰、遺族の福祉向上のため尽力し、良き社会の実現に邁進し、戦没者のみたまの尊いご遺徳に、これこそが御英霊の心を心としての無念さにお応えすべく決意を以って皆様方とともにお誓い申し上げます。
終りに、津市戦没者のみたまの安らかならんことをご祈念申し上げ、私の祭文といたします。
平成十七年四月二日
津市遺族会
久世 正勝
追悼の辞
桜花爛漫の今日のこの佳き日に、津市長様はじめ多数のご来賓のご臨席を賜り、津市戦没者遺族会津支部の遺族の皆様と共に御霊鎮まるこゝ三重県護国神社におきまして、「津市戦没者遺族会津支部の慰霊祭」が執り行われますに当たり、遺族を代表して謹んで大前に申し上げます。
昨年、日本は終戦六十周年の大きな節目を迎えました。
日本は、戦争が国家間紛争解決の手段としてはあまりにも悲惨で、無意味であったことをしみじみと思い知らされ、平和憲法のもとに、世界の先進国として、また、経済大国として自覚し、発展を遂げました。
この平和と繁栄は、国民のたゆまぬ努力により、幾多の国難を乗り越え、民主主義国家建設のために一致協力した賜であります。
この今日の日本の姿こそ、国のためにと尊い命を捧げられたご英霊の礎の上に築かれたことを決して忘れるものではありません。
私事になりますが、私は母から「お前のお父さんは、インドネシアのハルマヘラ島ワシレ郡ハテタボコ村という所で名誉の戦死を遂げられたのだよ」とよく聞かされました。それで私はいつかは父の戦没地を訪れてみたいと常々思っていました。父が、「裕行よ、わしの眠っている所に一度来てくれ」と言われているような気がしてならなかったのです。
私は会社の仕事で東南アジア方面のプロジェクトに参画する機会に度々恵まれました。その度に積極的に手を挙げ、インドネシアおよび隣のマレーシアでのプロジェクトにそれぞれ二回ずつ計四回参画し、延べ約三年間を現地で過ごしました。そしてチャンスがあったら、父の眠っている島を訪れてみたいと考えておりました。しかしそこは、日本人が個人で簡単に行ける所ではなく、諦めざるを得ないまゝ定年を迎えました。
そのような事で、政府主催の「遺児による慰霊友好親善事業」があることを知り、退職後、まもなくその事業に参加させていたゞきました。しかし、父の眠る島までは行くことが出来ず、遥か彼方からの遥拝をさせていたゞきました。それでも今までゝ父の眠る一番近くまで行くことが出来、従来からの肩の荷が下りました。
それ以来、今まで母を含め、お世話になった遺族会に対し、ご恩返しをしなければの考えのもとに、遅蒔きながら微力ではございますが、津市遺族会および三重県遺族会においてお手伝いをさせてもらっております。
遺族会は今、大きな変換期に遭遇しております。
戦没者の兄弟姉妹、配偶者、それに子といった直接の遺族の髙齢化が年々進むと共に、戦争の記憶も風化しつゝある今日であります。このような中において英霊顕彰、処遇改善等を世論に訴え、また後世に伝えていく使命を持っているのは私たち遺児の立場の者しかありません。
国のために尊い命を捧げた父達の意志に応え、また年老いた母達の人生を見守り、社会のために立派に尽くすことをこゝに報告すると共にご英霊の皆さんのご冥福をお祈り致しまして、私の追悼の辞とさせていたゞきます。
平成十八年四月四日
津市戦没者遺族会津支部
副会長 岡田 裕行
追悼のことば
向寒の候、本日公私共に御多用の中、津市長様始め多数の御来賓各位の御臨席を仰ぎ、平成十八年度津市戦没者戦災犠牲者追悼式が厳粛に執り行われますにあたり、津市戦没者遺族会を代表し謹んで哀悼の誠を捧げます。
あのいまわしい戦争が敗戦という姿で終結し、早くも六十一年の年月が過ぎ去りました。
その間、戦没者遺族が深い悲しみを抱えながら「英霊の顕彰と遺族の福祉向上」のため一致団結して、活動を続けてまいりました。灼熱の南の島々や極寒の地に散華された御英霊のご苦労を思いますと、今の平和な世の中で生きていることへの感謝の祈りとなっていると感じています。
今日の平和と繁栄は、尊い生命を犠牲にされた方々の礎の上に築かれています。このことを深く心に刻み、戦争を知らない世代が世の大半を占めようといわれる現在、この国が豊かで何一つ不自由なく暮らせることは、御英霊のお蔭であると考えるのが日本人本来の人情というものではないでしょうか。
昭和二十年、津の町は何度も空襲をうけ、見るも無残な焼け野原となり、多くの市民が犠牲者となりました。戦災復興の槌音も高く、目覚しい発展を遂げました。
我々は更に過去を正しく見つめ、二度と我々のような遺族を出してはならないこのことを改めて認識を深め、戦争の悲惨さと記憶を風化させずに後世に語り伝えるべく、遺族の絆をさらに深めて英霊顕彰に邁進していく所存であります。
戦没者のみたまの尊い犠牲を無駄にできない、ご遺徳にお応えすべく感謝の誠を捧げ、ご参列の皆様方と共にその決意をお誓い申し上げます。
最後になりましたが、この式典を主催していただきました津市役所の関係者各位に厚くお礼申し上げます。
戦没者戦災犠牲者のご冥福を心よりお祈り致しまして、追悼のことばと致します。
平成十八年十一月三十日
津市戦没者遺族会津支部副会長
久世 正勝
祭文
平成十九年桜の季節の良き日に津市長様はじめ多数のご来賓のご臨席のもと、津市戦没者慰霊祭が厳かにとり行なわれますに当り、津市遺族会を代表して謹んで祭文を申し上げます。
先の大戦が終って早や今年は六十二年目を迎えようとしています。
我々が今、手にしている繁栄と平和とは、を考え日本人の誇りをもってよりよき国を築き上げ、国難に殉じられた御英霊に改めて追悼の念を深くし行く末永くみたまをお慰め申し上げたく存じます。
今後戦争のない平和な世界の確立を祈らずにはいられません。御英霊の尊い犠牲を無駄にしてはいけないと心に決め、不幸な戦争はおこしてはいけないと基本を忘れる事なく後世に語りつぐことが残された遺族を初め一人一人国民の責務であると信じます。又時の流れと共にお歳を召された方々が充実した福祉のもと安心して暮らしていける事が御英霊に安堵していただける事だと思います。
悲惨な戦争のため、父の顔すら知らない遺児も沢山みえます。私もその一人です。
私の父は昭和十二年十一月十七日に中国中支無錫で戦死、母二十三才、姉三才でその時、私は母のお腹の中でした。当然父の姿、顔等知るわけがありません。父としても男、女どちらかともわからず、敵弾を額に受け、即死だったそうです。覚悟はしていたものの大変無念だった事だろうと悔んでなりません。
それからの母の毎日は私達には想像することが出来ません。
子供二人は幼く世の中だんだんと戦争にまきこまれて行く時、農業は機械化されていなく人力作業で頑張ってくれました。
私が小学校入学時は終戦間近の昭和十九年の春でした。
そんな時をのりこえて、私達を見守ってくれた母には今になって頭の下がる思いと感謝の気持でいっぱいです。その母も去年六月、九十二才でこの世を去りました。世の中には戦争で家や家族を失い、犠牲になった方々も沢山みえる事でしょう。そのことを思うと、私達はまだまだ幸せな方です。
母の背中をみつめて育った私達遺児は、組織の後継者として自覚をもって積極的に活動を推進して行きたいと思います。
英霊顕彰、福祉向上、処遇改善等を世間に訴え、又、後世に伝えて行く使命をもっているのは我々遺児の人達だと思います。
国のため尊い命を捧げた父達の意志に応え、又、年老いた母達の人生を見守り、社会のために立派につくす事を報告すると共に御英霊の皆様の御冥福をお祈り致しまして私の祭文といたします。
平成十九年四月五日
津市遺族会
安東分会長
松岡 邦忠
祭文
春たけなわのころとなり、桜も今が見ごろのこの良き日に、健康福祉部次長様倉田様はじめ多数のご来賓ご臨席のもと、津市戦没者遺族会慰霊祭が厳かにとり行われますに当たり、津市遺族会を代表して謹んで祭文を申し上げます。
日本の現在の情勢は尊い命の犠牲になられた御英霊の方々の日本国への思いが伝わっているのでしょうか。我が国は物質的にも経済的にも豊かになったが、しかし、戦争で尊い命を捧げた御英霊は、いまの日本を誇りに思っているでしょうか。
日本人の魂しいは、失われているのではないでしょうか。
全国民が認識をもって対処し、明るい世の中、楽しい我が家にしなければなりません。子や孫に語り伝えていきます。
昨年はちょうど還暦の節目の六十年記念三重縣遺族会結成記念式典を開催されました。戦後も六十三年になり、日本の多くが、戦争の痛みを忘れはじめています。国内外が永遠に平和でありますよう切望し、おちかいします。
靖国神社は、国のために尊い命を犠牲にされたひとたちの神社だから総理閣僚に御参拝戴きたいです。中国や韓国、近隣諸国との友好関係をはかって、日本が不利益にならないよう円満な方法で参拝出来ますよう、お守り下さい。
私が三才の時、父親は中国北支太原へ出征しました。うろ覚えですが、父といっしょに観音さんの近くでカレーを食べたことが思い出せます。私が六才の時、腸炎になり二ヶ月間入院、当時は点滴もなく、天井から大きな注射器をぶら下げて、ブドー糖を打ってもらっていたのを覚えています。生死をさまよい、今度再発したら助からないと云われたが、無事退院、喜びも束の間、我が家に帰ったらポストに父戦死のハガキがあり、母とおばあさんが私の身代わりになってくれたんやと云われ、今日まで私も一生懸命生きてきました。
平成八年に慰霊友好親善訪問で中国北支に永年の念願であった亡き父のねむる地に行き、一度は呼んでみたかった、お父ちゃん、お父さんと大きな声で呼びました。遠い所によく来てくれたと喜んでくれたと思います。
私も七十才になり、母も九十二才で胃に直接チューブで栄養液を入れてもらい、現在老人福祉施設でお世話になっています。
私達遺児も平均年令が七十才近くなり、婦人部、壮年部で築き上げた組織も五年先きとか将来に向けて後継者の育成に努力する亊をお誓いします。
最後になりましたが、戦没者の御冥福をお祈り申し上げると共に、私達遺族会のこれからの活躍をお守り下さい。
関係者各位の支援を深く感謝申し上げ、私の祭文とさせていたゞきます。
平成二十年四月三日
津市遺族会
中井 健次
追悼のことば
平成二十一年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が、御遺族をはじめ関係者多数の御参列のもと、本日ここに厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
先の大戦において御英霊となられました戦没者の皆様方が、祖国や家族のために、一身をも顧みることなく、辛酸の戦禍の中に散華されましたことは、私たちにとって、決して忘れてはならない深い悲しみとして、語り継いでいかなければなりません。
また、最愛の肉親の方を亡くされた御遺族の戦後の御苦労は、私たちの想像を絶するものがあり、在りし日の御英霊のお姿を偲びますとき、皆様方には万感胸に迫るものがあるものとお察し申し上げます。
終戦の混乱から早や六十有余年、我が国は目覚ましい経済発展を遂げ、国際社会においても、世界の先進国家の一員として歩み続けてまいりました。
郷土津市におきましても、数次の激しい戦災の爪痕を克服して、今日の繁栄に至っておりますことは、これひとえに、戦没者諸霊の御加護と御遺族の方々の御努力の賜ものにほかなりません。
私たちは、御英霊となられました方々の尊い犠牲の上に築かれたこの平和と繁栄を、又戦争の悲惨さを次の世代に永遠に伝えて参りますためにも、恒久平和への誓いを新たにいたしますとともに、改めて戦没者の方々の御冥福と御遺族の皆様方の御多幸を心から祈念申し上げまして、追悼のことばといたします。
平成二十一年四月八日
津市長 松田 直久
祭文
風薫る若葉の候、本日此処三重県護国神社の大御神前に津市健康福祉部長藤田信隆様始め多数のご来賓各位の御臨席を仰ぎ、津市戦歿者遺族会津支部の慰霊祭が盛大に執り行なわれるにあたり遺族会を代表して謹しんで祭文申し上げます。
先の大戦が終って、早や今年は六十四年目を迎えようとしています。
我々が今手にしている繁栄と平和とはを考え、日本人の誇りをもってよりよき国を築き上げ国難に殉じられた御英霊に改めて追悼のおもいを深くし、行く末永くみたまをお慰め申し上げます。
過去の戦歿者遺族の苦節と労苦に想いをいたす時、万感胸に迫り痛恨のきわみであります。
今後戦争のない平和な世界の確立を祈らずにはいられません。
御英霊の尊い犠牲を無駄にしてはいけないと心に決め、不幸な戦争はおこしてはいけないと基本を忘れる事なく、後世に語りつぐことが残された遺族を初め一人一人国民の責務であると信じます。又、時の流れと共にお歳を召された方々が充実した福祉のもと、安心して暮らしていける事が御英霊に安堵していただける事だと思います。
悲惨な戦争のため、父の顔すら知らない遺児も沢山みえます。
私の父は昭和十八年五月十四日、中国安徽省で戦死、母二十四才、私三才、弟一才でした。
父も幼い二児を残し、萩港対岸於て敵弾を受け、即死だったそうです。覚悟はしていたものの大変無念だった事だろうと悔んでなりません。
それからの母の毎日は私達には、想像する事が出来ません。
私の家は農業です。
子供二人は幼く世の中はだんだんと戦争にまきこまれて行く時、農業は現在と違って機械化されていなく、人力作業で本当に良く頑張ってくれました。
その様な時をのりこえて私達を見守ってくれた母には今になって、頭の下がる思いと感謝に気持で一杯です。
その母も平成七年二月十四日、七十四才で父のもとへと旅だって行きました。
世の中には、戦争で家や家族を失い犠牲になった方々も沢山みえる事でしょう。そのことを思うと私達はまだまだ幸せな方です。
母の背中をみつめて育った私達遺児は、組織の後継者として自覚をもって積極的に活動を推進して行きたいと思います。英霊顕彰、福祉向上、処遇改善等を世間に訴え、又、後世に伝えて行く使命をもっているのは我々遺児の人達だと思います。国のため尊い命を捧げた父達の意志に応え、又、年老いた母達の人生を見守り、社会のために立派に尽くす事をここにお誓い申し上げます。
最後になりましたが、護国神社の社よりお守り頂く戦歿者の御英霊の御冥福をお祈り致しまして、私の祭文とさせていただきます。
平成二十一年四月八日
津市戦歿者遺族会津支部
片田分会
野田 久忠
追悼のことば
本日ここに、御遺族の皆様をはじめ関係者多数御参列のもと、平成二十二年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
顧みますれば、先の大戦におきまして数多くの方々が、戦禍の犠牲になられましたことは、私たちにとって永遠に忘れることのできない深い悲しみであります。
苛烈を極めた戦いの中で、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れた戦没者の霊に思いを馳せ、心から御冥福をお祈りいたします。
混沌として世相の中で、一家の柱を失い、また若くして兄弟を亡くされ、辛く厳しい生活に耐え、生き抜いてこられた御遺族の皆様には、その御苦労に対し、心から敬意を表するものであります。
今日、我が国の生活は著しい発展を遂げましたが、この平和と繁栄は、先の大戦における尊い犠牲の上に築かれたものであります。
この平和で豊かな今日においてこそ、過去を振り返り、戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを次の世代に語り継いでいくことが私どもの責務であります。そして、二度とこのような悲劇を繰り返さないことが御霊に報いる道であります。
私たちは先の大戦における尊い犠牲により得られた教訓をもとに、再び悲惨な戦争が起こることのないよう不戦の誓いを堅持するとともに、残された御遺族の援護と恒久平和の実現に努めることを改めて固くお誓いするところであります。
最後になりますが、ここに謹んで御霊の御冥福を祈り、併せて、御遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成二十二年四月八日
津市長 松田 直久
祭文
本日、ここ三重県護国神社の大神前に、公私とも御多用中の折、津市健康福祉部長市川和彦様始め、多数の御来賓各位の御臨席を仰ぎ、平成二十二年津市戦没者遺族会津支部の慰霊祭が斎行されるに当たり、戦没者遺族を代表して、謹んで哀悼の誠を捧げ、御霊のご冥福をお祈り申し上げます。
振り返へれば、戦後の焦土の中からたゆまぬ努力と不屈の精神により、驚異的な発展をとげ、世界有数の経済大国として国民は等しく平和の中に浸っています。
しかし、いまこうした平和が保たれているのも国の為に、尊い命を捧げられた御霊の犠牲の上に築かれた事を私達は決して忘れてはなりません。私達遺族も国民の一人として御霊の崇高なお心を心とし、戦争の悲惨さと追悼の尊さを風化することなく、次の世代へ伝えながら、過去のあやまちを再び繰りかえさぬよう努力し、更なる平和国家づくりに邁進することが御霊の御心にお応えする唯一の責務であると信じます。
あの不幸な時代に生を受け、苦難に満ちた戦中戦後を生きた私達の経験、二度と私達のような遺児を生み出してはなりません。
今年は、戦後六十五年の節目の年であります。
歴史的認識とか靖国問題に至っては、英霊が今もなお、氷の刃に立たされているような事は、私たち遺族にとって、耐え難い悲しみであり、英霊のご心情いかばかりかとお察し申し上げます。
改めて尊崇の誠を捧げ、英霊の顕彰と戦没者遺族の福祉の向上に更なる努力することをお誓い申し上げます。
終わりにあたり、御霊のご冥福を心からお祈り申し上げ、私たち遺族の上にご加護賜らんことを念じつつ、私の祭文といたします。
どうか永久に安らかにお眠りください。
平成二十二年四月八日
津市戦没者遺族会津支部
一身田分会 小野 明
追悼のことば
平成二十三年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が、御遺族をはじめ関係者多数の御参列のもと、本日ここに厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
先の大戦において御英霊となられました戦没者の皆様方が、祖国や家族のために、一身をも顧みることなく、辛酸の戦禍の中に散華されましたことは、私たちにとって、決して忘れてはならない深い悲しみとして、語り継いでいかなければなりません。
また、最愛の肉親の方を亡くされた御遺族の戦後の御苦労は、私たちの想像を絶するものがあり、在りし日の御英霊のお姿を偲びますとき、皆様方には万感胸に迫るものがあるものとお察し申し上げます。
終戦の混乱から早や六十有余年、我が国は目覚ましい経済発展を遂げ、国際社会においても、世界の先進国家の一員として歩み続けてまいりました。
郷土津市におきましても、数次の激しい戦災の爪痕を克服して、今日の繁栄に至っておりますことは、これひとえに、戦没者諸霊の御加護と御遺族の方々の御努力の賜ものにほかなりません。
私たちは、御英霊となられました方々の尊い犠牲の上に築かれたこの平和と繁栄を、又戦争の悲惨さを次の世代に永遠に伝えて参りますためにも、恒久平和への誓いを新たにいたしますとともに、改めて戦没者の方々へ心から哀悼の意を表し、御遺族の皆様方の御多幸をお祈り申し上げまして、追悼のことばといたします。
平成二十三年四月七日
津市長職務代理者
津市副市長 野口 正
祭文
陽春の候、本日此処三重県護国神社大神前に、津市健康福祉部部長市川和彦様始め多数の御来賓各位の御臨席を仰ぎ、津市戦歿者遺族会津支部の慰霊祭が厳粛に執り行われるに当たり戦歿者遺族を代表し御霊のご冥福をお祈り致し謹んで祭文を申し上げます。
先の大戦が終って、早や六十六年を迎えようとしています。我々が今、手にしている平和を考え、日本人の誇りを持って散華されたご英霊に対し、改めて追悼の思いを深く、永く御霊をお慰め申し上げます。
過去の戦歿者遺族の苦節と苦労に思います時、万感胸に迫り痛恨の極みであります。今後戦争の無い平和な世界を確立しなければなりません。しかしながら、最近政治は混迷し、経済は失速し、社会のモラル、低下しています。軍歌に「さらば祖国よ栄えあれ」とありますが、今ご英霊の前で日本が「栄えて」いると申し上げる事が出来るでしょうか。今回の東日本大震災は、その現れではないでしょうか。
戦後六十六年へて、遺族や一般国民にもご英霊に対する思いが薄れ、絆が失われつつあります。その結果として天から大変厳しいメッセイジが下されたのだと思います。今一度原点に戻り、英霊顕彰を後世に語り継ぐ事が肝要だと思います。
去る平成二十年八月十六日、NHKの比島レイテイ島の特別番組を見ました。生還された与那嶺隊長の話では、八萬人の日本軍が、この島で戦死したと云う事を話されました。殆どが餓死であります。私の父もその中の一人です。三十一才でした。隊長は多くの部下を失ない大変申し訳けないと云う心で、毎日靖国神社のお札を拝んでいると仰っていました。
残った家族四人は昭和二十年、津の大空襲で家はメチャクチャに成り、母の実家に疎開。妹は三才で病死。その後、家族三人片寄合って生きて参りました。祖母は昭和四十年に他界、母は二十七才の時から、女手一人で五十年に及ぶ苦労の連続でした。その母も平成十三年、八十二才で他界しました。世の中には戦争で一家全滅や戦争孤児に成った方々も多くおられる事でしょう。その事を思うと私達はまだまだ幸せな方です。母の背中を見つめて育った私達遺児は、組織の後継者として自覚を持って積極的に活動を推進して行きたいと思います。国のため、尊い命を捧げた父達の意志に応え、社会のために立派に尽くす事をここにお誓い申し上げます。
最後に成りましたが、三重県護国神社に鎮まります六萬余のご英霊に対し、改めてご冥福をお祈り致し、私の祭文とさせていただきます。
平成二十三年四月七日
津市戦歿者遺族会津支部
垂水 藤水地区代表
市川 浩司
祭文
本日、ここ三重県護国神社の大神前に津市副市長野口正様始め、多数のご来賓各位の御臨席を賜り、津市戦没者遺族会津支部の慰霊祭が執り行なわれるに当たり、戦没者遺族を代表して謹しんで祭文申し上げます。
先の大戦が終って早や今年は、六十七年目を迎えようとしています。
私の父は沖縄で戦死致しました。
平成十八年十一月、私は戦没者遺児による沖縄慰霊友好親善訪問団に参加致しました。団員それぞれが、父の戦没の地に立ち追悼のことばを語りかけました。その声はことばにならず、一同涙の中で「ふるさと」や「里の秋」などをうたい、六十年ぶりの父達との対面であり、あの感激は忘れることができません。
父を沖縄戦で亡くした者同志が、互いに夜おそくまで語り合い、初めての出会いでしたが、団員全員が兄弟のように心から打ち解けることができました。そして永久の平和を願い、悲惨な戦争が二度と繰り返されないよう、次の世代へ伝えていくことを誓い合うことができました。
さて、お父さん、賀枝子です。
写真でしか知らないお父さん、子供の時から、アルバムを何度見たことでしょう。
私が生まれてひと月後にお父さんは出征なさったそうですね。そしてその日がお父さんとの永久の別れとなってしまいました。
お父さんが出征なさった時、お見送りの皆様にご挨拶をされたことば、激戦地から家族にあてた手紙、そして昭和二十年六月二十二日、お父さんの戦死を告げる死亡告知書等が残っております。私はそれらを見る度に胸が熱くなり涙があふれます。それらは私の宝物であります。
お父さん、お母さんは九十四才という高齢になりました。体も弱まり足もともよぼよぼとしていますが、もう少しの間、私達家族のところいさせて下さいね。お守り下さいます様、お願い申し上げます。
あの不幸な時代に生まれ育った私達遺児は、組織の後継者として自覚をもち、改めて英霊の顕彰、福祉の向上又、後世につなげていくことをここにお誓い申し上げます。
最後になりましたが、ここ護国神社の社よりお守り頂く御英霊の皆様に心から感謝と哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り致しまして私の祭文とさせていただきます。
平成二十四年四月五日
津市戦没者遺族会津支部
修成分会
刀根 賀枝子
桜咲くうららかな春の日に、ここ三重県護国神社において津市副市長葛西様を始め、多数の御来賓の方々の御臨席を賜り、津市戦没者遺族会津支部の慰霊祭が厳粛に執り行われるに当り、祭文を申し上げます。
私の父は昭和十九年七月にマリアナ群島サイパン島に於いて戦死したのは三十二才、母は二十四才、私二才、妹五ヶ月の時でした。
終戦から続々と兵士の帰還が報じられる中、父と同じ自動車部隊だったという岐阜の方の記事を読み、母は何か手掛りをと思い、その方に手紙を出しますとその方はわざわざ岐阜から私達の元へ来られ、曹長は何人かの部下を連れて森の中に入って行き、そのまゝ帰って来なかったという事で、母も諦めざるを得ませんでした。
まもなく東南海地震と津波があり、その二年後に私達の町の大火あり、1/3が焼失し、私の家も全焼しました。夫の戦死、そして地震、津波、火事と度重なる災害に見舞われ二人の小さい子供をかかえて、母はどんな思いで生きてきたのでしょうか。
私達も中学生となり、夏休みに臨時列車に乗り、遺児の仲間達と始めての靖国神社へお参りした事が思い出の一つになっています。
父はサイパンへ向う時、東京に住んでいる伯母夫婦に留守中は、妻と子供達をくれぐれも頼みますと挨拶をして出発したそうですが、その伯母達も東京大空襲に遭い、娘家族を失い、命からがらふる里へ帰り、そして津で生活していたので是非、津に来てはどうかという誘いで私達親子は津の住民になったのは、昭和三十九年東京オリンピックの年でした。
戦後六十年を経て、天皇皇后両陛下がサイパンへ慰霊の旅に出られた年の秋、私達も日本遺族会主催の慰霊友好の旅に参加しました。
白い砂浜、コバルトブルーの海、ここが戦場として幾万の人の命が失われた亊は、信じられない気持でしたが、巡拝したあちこちの場所にその残骸が風雨にさらされ、潜水艦で潜った海の底にもその残骸を見るにつけ、六十年前の戦争のむごさを思い知らされました。そして、この地で帰らぬ人となった父親の無念さを思うと胸が一杯になりました。こんな悲しい思いをするのは、もう私達で沢山です。
今また、憲法改制とか、国防軍とかきくようになりましたが、この国は一体どこへ行こうとしているのでしょうか。私達遺児も七十の坂を越えましたが、遺族会の一員として積極的に活動しなければと思っております。
ご英霊の安らかに鎮まりまして祖国の安泰にお力を下さいますよう祈念し、祭文とさせていただきます。
平成二十五年四月五日
津市戦没者遺族会津支部
橋北地区代表
伊澤 小枝子
式辞
本日ここに、御遺族の皆様をはじめ関係者多数御参列のもと、平成二十六年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
顧みますれば、先の大戦におきまして数多くの方々が戦禍の犠牲になられましたことは、私たちにとって永遠に忘れることのできない深い悲しみであります。
苛烈を極めた戦いの中で、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れた戦没者の霊に思いを馳せ、心から哀悼の意を表します。
混沌とした世相の中で、一家の柱を失い、また若くして兄弟を亡くされ、辛く厳しい生活に耐え、生き抜いてこられた御遺族の皆様には、その御苦労に対し、心から敬意を表するものであります。
今日、我が国の生活は著しい発展を遂げましたが、この平和と繁栄は、先の大戦における尊い犠牲の上に築かれたものであります。
この平和で豊かな今日においてこそ、過去を振り返り、戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを次の世代に語り継いでいくことが私どもの責務であります。そして、二度とこのような悲劇を繰り返さないことが御霊に報いる道であります。
私たちは先の大戦における尊い犠牲により得られた教訓をもとに、再び悲惨な戦争が起こることのないよう不戦の誓いを堅持するとともに、残された御遺族の援護と恒久平和の実現に努めることを改めて固くお誓いするところであります。
最後になりますが、ここに謹んで御霊の安らかならんこと、また、御遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成二十六年四月四日
津市長 前葉 泰幸
代読 津市副市長 葛西 豊一
祭文
本日ここに、「平成二十六年度津市戦没者遺族会津支部 慰霊祭」が、葛西津市副市長さまをはじめ、ご来賓各位のご臨席のもと、厳かに執り行われるにあたり、遺族会津支部を代表して、謹んで慰霊のことばを捧げます。
歳月は夢の如く過ぎ去り、昭和二十年八月、我が国は忘れることのできない敗戦を経験してから、実に六十九年目を迎えようとしております。
顧りみますれば、先の大戦において遠く離れた異国の地で、父母を思い、妻子を案じ、祖国日本の繁栄を願いながら、帰らぬ人となられた数多くの尊い命は、永遠によみがえらすことはかなわず、ご英霊方の無念さを思う時、今もなお、哀惜の念を禁じえません。
戦後の我が国は、廃墟と幾多の混乱の中を、互いに励まし合いながら、平和国家の再生を目指し、国民一丸となって、懸命な努力を重ねてきた結果、飛躍的な発展を遂げてまいりました。
今、私たちは、あなた方の尊い犠牲の上に築き上げられた平和と繁栄を享受する中で、過去を謙虚に振り返り、あの悲惨な戦争の体験を忘れることなく、私たちの後継者である若い世代に語り継いでいかなければなりません。
ここ、三重県護国神社において、お守りいただいております過去の戦争で亡くなられた旧津市のご英霊は二千六百数十柱の方々でございます。
その、ご英霊方を家族の大黒柱として頼ってこられた夫を、国に捧げられた妻の皆さんは、すでに九十歳を超え夫の元へ旅立たれる方が多くなってきておられ、今ではもう僅か五十数名の皆さんしかお見えになりません。
また、現在の遺族会活動の中心を担っておられる遺児の皆さんでさえ、大半が七十歳を超えてきております。このように、妻・兄弟・子供といった直属の遺族の皆さん方の減少と高齢化が進んできている状況から、遺族会は大きな変換期を迎えてきております。
そして今、戦争を知らない世代が国民の八割近くを占めるようになり、先の大戦の記憶が風化されてきております。
また、世界各地においては、テロや地域紛争が後を絶たず、今もなお、罪のない尊い命が失なわれ続けており、世界平和への道のりは、未だに遠いことを痛感せざるを得ません。
こうした現実を前に、私たち遺族はご英霊方の孫・ひ孫の世代だけではなく、世間のすべての世代に対して、あなた方のかけがえのない命をもって示された、戦争の悲惨さと平和の尊さを深く心に刻み、未来を担う次の世代にしっかりと継承していくことこそが、私たち遺族に与えられた使命と信じ、これからもたゆまぬ努力をしていく所存でございます。
終わりにあたり、ご遺族並びに関係者の皆様方のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げ、慰霊のことばといたします。
平成二十六年四月四日
津市戦没者遺族会津支部
副会長 川北 眞佐夫
追悼のことば
本日ここに、平成二十七年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が、御遺族をはじめ関係者多数の御参列のもと、厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
先の大戦において御英霊となられました戦没者の皆様方が、祖国や家族のために、一身をも顧みることなく、辛酸の戦禍の中に散華されましたことは、私たちにとって、決して忘れてはならない深い悲しみとして、語り継いでいかなければなりません。
また、最愛の肉親の方を亡くされた御遺族の戦後の御苦労は、私たちの想像を絶するものがあり、在りし日の御英霊のお姿を偲びますとき、皆様方には万感胸に迫るものがあるものとお察し申し上げます。
時の流れは早く、我が国は戦後七十年という節目の年を迎えました。この間、終戦の混乱の中から目覚ましい経済発展を遂げ、国際社会においても、世界の先進国家の一員として歩み続けて参りました。
郷土津市におきましても、数次に渡る激しい空襲の爪痕を克服して、今日の繁栄に至っておりますことは、これひとえに、戦没者諸霊の御加護と御遺族の方々の御努力の賜ものにほかなりません。
私たちは、先の大戦の記憶を風化させることなく次の世代に伝え、また、御英霊となられました方々の尊い犠牲の上に築かれたこの平和と繁栄を未来に繋いで参りますためにも、恒久平和への誓いを新たにいたしますとともに、改めて戦没者の方々へ心から哀悼の意を表し、御遺族の皆様方の御多幸をお祈り申し上げまして、追悼のことばといたします。
平成二十七年四月三日
津市長 前葉 泰幸
代読 津市副市長 葛西 豊一
祭文
本日ここに、三重県護国神社の大前に津市副市長 葛西豊一様始め御来賓各位、多数の御臨席を仰ぎ平成二十七年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執り行われるに当り遺族を代表して御英霊に感謝の誠を捧げ衷心より追悼のことばを申し上げます。
本年は戦後七十周年の節目の年であります。
今日、我が国の平和と繁栄は、先の大戦における尊い犠牲のうえに築かれています。
祖国の為に愛する家族を案じつつ戦場に散り戦禍に散り倒れた方々のご遺志を受け継ぎ戦没者の霊に思いを馳せ、心から哀悼の意を表します。
天皇皇后両陛下におかれましては、この四月八日からパラオ諸島のペリリュー島に慰霊訪問されます。
遺族として感謝に堪えません。
皇后陛下は昨年の傘寿の会見に際し「世界の諍い多くの中で我が国の遺族会が一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けてきたことを尊く思っています。」とお触れになられました。
このお言葉を胸に刻み改めて世界の恒久平和を願っています。
戦後七十年を経ても尚世界各地では紛争が絶えず悲しみは続いています。
戦争を知らない世代が国民の八割を超える今日私達遺族が平和の尊さ悲惨な戦いのない時代へと後世に次世代語り継ぐことは社会的使命であり責務でもあります。
戦後七十周年記念事業として国や県、また市町において節目にあたる本年を平和の尊さと大切さを考えて頂く機会として新関連事業、規模拡大計画案など実施されることになりました。
七月に開催されます三重県戦没者追悼式と、ともに平和の集い(仮称)児童達の参加参列、意見発表の集まり。
八月に開催されます全国戦没者追悼式には児童代表団の式典参列についての派遣要請がされます。
他にも県総合博物館での平和展(仮称)七十周年記念記録として保存活用します。
沖縄「三重の塔」五十周年記念事業など挙げられます。
これらは未来を担う若い世代を始めとする多くの人々そして未来に繋ぐための取組であります。
我ら遺族会の先人たち諸氏らが築かれた高貴ある遺族会活動に誇りを持って引き続き英霊顕彰を始めとする活動に努力邁進することをここにお誓い申し上げます。
終わりに本日は御公務、御多用のなか御来賓各位には御臨席賜りまして有難う御座いました。
心よりお礼申し上げます。
謹んで御霊の安らかならんこと、また御参列の遺族会の皆様御一同様のご多幸とご健勝を祈念いたしまして祭文と致します。
平成二十七年四月三日
津市戦没者遺族会 津支部
高野尾分会 田中 正紀
追悼のことば
本日ここに、御遺族の皆様をはじめ関係者多数御参列のもと、平成二十八年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
顧みますれば、先の大戦におきまして数多くの方々が戦禍の犠牲になられましたことは、私たちにとって永遠に忘れることのできない深い悲しみであります。
苛烈を極めた戦いの中で、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れた戦没者の霊に思いを馳せ、心から哀悼の意を表します。
混沌とした世相の中で、一家の柱を失い、また若くして兄弟を亡くされ、辛く厳しい生活に耐え、生き抜いてこられた御遺族の皆様には、その御苦労に対し、心から敬意を表するものであります。
今日、我が国の生活は著しい発展を遂げましたが、この平和と繁栄は、先の大戦における尊い犠牲の上に築かれたものであります。
この平和で豊かな今日においてこそ、過去を振り返り、戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを次の世代に語り継いでいくことが私どもの責務であります。そして、二度とこのような悲劇を繰り返さないことが御霊に報いる道であります。
私たちは先の大戦における尊い犠牲により得られた教訓をもとに、再び悲惨な戦争が起こることのないよう不戦の誓いを堅持するとともに、残された御遺族の援護と恒久平和の実現に努めることを改めて固くお誓いするところであります。
最後になりますが、ここに謹んで御霊の安らかならんこと、また、御遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成二十八年四月八日
津市長 前葉 泰幸
代読 津市副市長 盆野 明弘
祭文
本日、ここに三重県護国神社の大前において津市副市長盆野明弘様を始め多数の御来賓の方々の御臨席を賜り、平成二十八年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が執り行われるにあたり遺族を代表して謹んで追悼のことばを申し上げます。
先の大戦において我が国の三百十万余人にのぼる方々が犠牲となり、その尊い生命の礎の上に今日の我が国の平和と繁栄があります。
心から全戦没者の皆様に対する哀悼と感謝の誠を捧げたいと思います。
戦争体験者が極めて少なくなった状況で戦争の事をほとんど知らない若い世代、近現代史を学ばなかった世代、彼らに日本が歩んできた歴史を戦争の悲惨さ平和の尊さをどう伝えるか、現実に向けて邁進致します。
我々戦没者遺族は、これからも先の大戦の記憶と戦没者に対する慰霊顕彰の心を風化させることなく確実に次の世代に語り継いでいく努力をしなければなりません。
私の父は、少尉中支で酷い最期を遂げました。
数十通にも及ぶ家族への手紙は母のお腹の中の私への文面ばかり綴られていました。
幼い物心がついた頃に父の顔写真を見せられ始めて父と知った私は一人っ子です。
未だ海外各地に眠る多くの戦没者ご遺骨の祖国への早期のご帰還が待たれます。
ふるさとへの一刻も早く収容される、先月三月二十五日に国会で遺骨収集関連法案が制定され、現実のものとなるよう私達心からお待ち申し上げたいと思います。
本年も天皇皇后両陛下は、海外へ公式訪問されフィリピンに行幸啓され戦没者慰霊碑に拝礼されフィリピンで戦死した日本兵の冥福を祈られました。
私ども日本人が決して忘れてはならないことであると深い思いやりのお言葉を頂き両陛下のお心遣いにはいつも胸が熱くなり感極まるところであります。
戦後七十年を経過した今ここに国難に殉じられた戦没者の御霊に心からなる慰霊の誠を捧げ過去を振り返り次の世代に語り継いでいくことが私達の責務であります。
どうか皆様におかれましては戦没者慰霊奉賛の輪が更にひろげられますよう今後共引き続き暖かいお心をお願い申し上げます。
悲劇を二度と繰り返えさせない為に世界の恒久平和の実現を願いこれからも活動していくことをここに固くお誓い申し上げます。
終わりに本日は来賓各位にはこの時期ご多忙の中ご臨席頂きまして有難うございました。
ご参列の皆様方の一層のご多祥とご健康をお祈り申し上げまして私の祭文と致します。
平成二十八年四月八日
津市戦没者遺族会津支部
神戸分会 真弓 薫
祭文
本日、ここに三重県護国神社の大前に津市副市長盆野明弘様を始め御来賓各位の御臨席を仰ぎ平成二十九年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執り行われるにあたり遺族を代表して謹んで追悼の言葉を申し上げます。
先の大戦では、数多くの方々が祖国を思い愛する家族を案じつつ苛酷な戦闘に倒れ遠い異国の地で散華されました。
今日の我が国の平和と繁栄の礎となられた戦没者の方々に、深く思いを致し衷心より哀悼の誠を捧げます。
亡くなられたみたまに永久の安らぎをお祈り申し上げます。昨年は天皇皇后両陛下のフィリピンご訪問、前アメリカ大統領広島訪問、安倍総理の真珠湾訪問など世界の恒久平和を願う出来事がたくさんありました。
本年も両陛下が三月始めにはベトナム・タイを公式訪問されました。
御年八十歳を超えられなお慰霊の旅をお続けになられていることは改めて戦没者とその遺族に対し常にお心をお寄せ続けて頂いたことへのお気持ちに他ならず誠に感謝堪えません。陛下のお言葉を傾聴し先の戦争の事を十分に知り考えて深めていくことが日本の将来にとって極めて大切とお話しになられ戦争が風化されている現状に危惧を示されました。両陛下が身をもってお示し下さった「戦争の記憶を風化させない」ということを重い課題とし我々遺族会は戦後七一年余深い感謝と哀悼のまことを捧げ諸霊のご冥福をお祈り申し上げることを全力で第一の活動として運動を続けてまいりました。
平和と繁栄を祈ることの大切さを次の世代へ伝えていかなければならないと私達遺族会に課せられた社会的責務であり決意を新たに粘り強く発信し続けてまいります。
私達は先の大戦から学びとった多くの教訓を深く心に刻み悲惨な戦争を風化させることなく次世代に継承していくことをお誓い申し上げます。
終りに本日は年度始めのこの時期御公務御多用のなか御来賓各位には御臨席賜りまして有難う御座いました。
心よりお礼申し上げます。
戦没者の御霊の安らかならんことをそして御参列の皆様方の御平安を切に願い御一家御一同様の御健勝と御多幸を祈念致しまして私の祭文とします。
平成二十九年四月七日
津市戦没者遺族会 津支部
雲出分会 北村 尚敏
追悼のことば
本日ここに、御遺族の皆様をはじめ関係者多数御参列のもと、平成三十年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執り行われるに当たり、謹んで追悼のことばを申し上げます。
顧みますれば、先の大戦におきまして数多くの方々が戦禍の犠牲になられましたことは、私たちにとって永遠に忘れることのできない深い悲しみであります。
苛烈を極めた戦いの中で、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れた戦没者の霊に思いを馳せ、心から哀悼の意を表します。
混沌とした世相の中で、一家の柱を失い、また若くして兄弟を亡くされ、辛く厳しい生活に耐え、生き抜いてこられた御遺族の皆様には、その御労苦に対し、心から敬意を表するものであります。
今日、我が国の生活は著しい発展を遂げましたが、この平和と繁栄は、先の大戦における尊い犠牲の上に築かれたものであります。
この平和で豊かな今日においてこそ、過去を振り返り、戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを次の世代に語り継いでいくことが私どもの責務であります。そして、二度とこのような悲劇を繰り返さないことが御霊に報いる道であります。
私たちは先の大戦における尊い犠牲により得られた教訓をもとに、再び悲惨な戦争が起こることのないよう不戦の誓いを堅持するとともに、残された御遺族の援護と恒久平和の実現に努めることを改めて固くお誓いするところであります。
最後になりますが、ここに謹んで御霊の安らかならんこと、また、御遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成三十年四月六日
津市長 前葉 泰幸
代読 津市副市長 盆野 明弘
祭文
本日ここに、三重県護国神社の大前に、津市副市長、盆野明弘様始め、御来賓各位多数の御臨席を仰ぎ、平成三十年度 津市戦没者遺族会 津支部慰霊祭が、厳粛に執り行われるにあたり、遺族を代表して御英霊に感謝の誠を捧げ、衷心より追悼の言葉を申し上げます。
鑑みますと、先の大戦が終わり、今年は七十三年となります。
終戦当時の我が国日本は、敗戦による混迷の時代であり、国民にとって物心両面にわたる苦境は筆舌に尽しがたいものでした。
その後、我が国の経済発展は目覚ましく、今日では先進国のリーダーとして国際社会に貢献するに至っておりますが、この平和と繁栄を得ることが出来ましたのも、ここに眠る尊い命と残された我々家族の犠牲によるものであることを風化させてはなりません。
特に働き手を失い、経済力もない母親たちは、ただ唯一持っていた強い精神力と家族と絆、負けん気、更には英霊に対する誇り、遺族会の仲間らを糧として、ただただ、前を向きながら子供らの成長を願い、働き続けてくれたことによるものです。
このように頑張って働く母親の背中を見て育った私達は、少しでも母親の役に立ちたいと学校から帰宅すると同時にカバンを投げ出し農作業の手伝いに田畑に出かけ大人になって気が付いた時、自分には反抗期の思い出がありませんでした。
このことを深く顧み、いかに年月が過ぎ、縁が遠くなろうとも、戦争の愚かさだけは決して忘れてはなりません。
ところが、昨今の政治を見ておりますと、戦争を始めたいのでしょうか?
国民の大半が理解していない安保関連法を無理やり成立させたり、我が国が世界に誇る戦争放棄の憲法九条を改正しようとしたりしています。
私達は、このような国政をしっかりと見つめ二度と戦争を起こさせないよう見守っていき、孫、子らを戦争の犠牲にすることだけは決して許してはなりません。
さて、私は平成十九年、二十六年、更に本年二月七日からの九日間の三回、父の戦没地であるパプアニューギニア国ブーゲンビル州ブカ島に追悼の旅に出かけ「親父さん」と呼ばせてもらい家族の近況などゆっくりと話をしてまいりました。
日本から六千キロも離れた灼熱の地で、飢えに苦しみ、病魔と闘い、最愛の妻、子を残し最期を迎えなければならなかったのかと思う時、無念さばかりがこみ上げ涙が止まらないものでした。私の体力が続くならば今後も四回、五回と慰霊の旅に出かけたいと考えております。
最後になりましたが、ここ三重県護国神社に眠る六万三百余名の戦没者のご英霊に対し衷心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に、本日ご参列の皆様方のご健勝とご多幸をご祈念申し上げ祭文といたします。
平成三十年四月六日
津市戦没者遺族会津支部
安東分会長 近藤 義行
祭文
本日ここに三重県護国神社の大前に津市副市長盆野明弘様を始め多数の御来賓の方々の御臨席を仰ぎ平成三十一年度津市戦没者遺族会津支部慰霊祭が厳粛に執行されるにあたり遺族を代表して謹んで追悼の言葉を申し上げます。
戦後七十四年、今日の平和と繁栄のいしずえが尊い犠牲の上に築かれている事を私達は決して忘れてはなりません。私達遺族の歩んだ道のりは厳しく寂しい苦難の歳月でした。
私が生まれて半年の時父が出征し、昭和二十年四月十日フィリピンルソン島ラグチ州ルンバンで戦死しました。まだ、二十六歳でした。
平成二十一年六十五歳の時、日本遺族会のおかげで遺児による慰霊友好親善訪問団の一員として念願かないフィリピンへ行くことができました。戦跡を巡りながら御英霊達が酷暑の遠い異国の地に祖国を想い家族を案じ望郷の念にかられながら平和国家の礎となられたと思う時、御英霊に心からなる慰霊の誠を捧げ過去を振り返り次の世代に語り継いでいく事が私達の責務です。
天皇陛下が在位三十年を祝う記念式典で平成が戦争のない時代として終ろうとしている事に心から安堵していますと述べられました。新しい元号が四月一日に「令和」と発表されました。新しい「令和」も戦争のない平和な幸せな時代が続くように願っています。悲劇が二度と繰り返さないために恒久平和の実現を願いこれからも活動していくことを固くお誓い申し上げます。
終わりに戦没者の御霊の安らかならんことを、そしてご参列の皆様方のご平安とご健康をお祈り申し上げまして私の祭文と致します。
平成三十一年四月五日
津市戦没者遺族会津支部
橋北分会 伊藤 佳代子
祭文
本日はコロナ禍の中、三重県護国神社の大前に三重県遺族会津支部の各分会代表の皆様で津支部の慰霊祭を開催していただき誠に有難く思います。
昨年春より今年にかけて御英霊に対する行事が中止または縮小になり御英霊も淋しい思いをされていたことと思われます。
私の父は東部ニューギニアマリエンベルグで戦死しました。
母と結婚してすぐに、今の韓国忠清南道礼山郡で学校の教員をしていました。
兄二人、姉一人と生まれたばかりの私を残して召集されました。
戦争も激しくなって引き揚げることとなり、その船の中での事ですが、母は周りの人から「航海中にB29が襲撃してきたら、真っ先に赤ん坊を海に投げこんで次は姉、男の子二人は何としても日本に連れて帰らなあかんぞ」と何度も言われたそうです。
幸いにもB29は飛んでこず内地に帰れました。
引き揚げ後母は病院の事務員として、朝早くから夜遅くまで働き続け、私達を育ててくれました。
その母も十七年前に亡くなり最後のお別れの時姉がぽつりと「お母さん早くお父さんに見つけてもらいなよ」と言った時どっと涙が溢れました。
私達遺児には進学、就職、結婚と口には言えない困難がありました。
私はこの年になっても「お父さん」と言ってひざの上で甘えたいとなんども思います。
こんな戦争の被害者は私達だけでたくさんです。
生きている限り御英霊の安らかならんことを念じ、活動することを誓い私の祭文と致します。
令和三年四月六日
津市戦没者遺族会津支部
高茶屋分会 松永 みどり
祭文の辞
本日ここに、三重県護国神社の御前において、津市戦没者遺族会主催による慰霊祭が催行されるに当たり、祭文を言上申し上げます。
世界は今、大きな波に押し寄せられています。ひとつは、二〇一九年に発生した新型コロナウイルスによる感染症で日々、何百万、何千万人の人達がこれに侵され苦しんでおられます。
更には、本年二月二十四日にロシアが隣国ウクライナに侵攻し戦争に及ぶという暴挙です。
いかなる理由があるにしても他国に武力をもって侵略することは許されるものではありません。
戦争の怖さ、愚かさは私達が一番知っております。まさか第三次世界大戦に発展することの無いよう、一日も早く終決することを願うばかりです。
さて、本年は先の大戦が終わって七十七年目を迎え、私もよわい八十一才を迎えております。
若い時は、仕事仕事で過ごしていましたが、戦死した父親の倍の年齢に達したころ、二才少しで別れた父のことが気になり始めました。
父はいったいどんな所に戦いに行ったのか?どんな所で戦死したのか?
話しに聞きますと、水も食べるものもないジャングルの中で終戦の六日前、長崎に原爆が投下された二十年八月九日まで生き抜いたのか?など、一度はそこに行ってみたいと考えるようになりました。
平成十八年に遺族会のお世話をさせてもらうことになって、国の事業で戦没者遺児による慰霊友好親善事業で父親の戦没地に赴けることを知り、平成十九年に早速この事業に参加させてもらい、赴きました。
その地は、パプアニューギニア国ブーゲンビル島で、ここは大激戦地で歌で知られたラバウル市のある島の隣の島です。
現地に入った時の感動は、言葉にならず団員一同、ただただ涙するばかりでした。
そのことが忘れられず、平成二十六年、二十八年、三十年と約十年の間に合計四回参加してきました。
体が続くかぎり今後も行きたいと思っておりますが、コロナ等で世界の情勢がどうなるか?などと気掛かりでなりません。
最後になりましたが、コロナ感染症の終決とウクライナ戦争の早期平和解決を願い、並びにここ三重県護国神社に眠る戦没者の英霊に対し、哀悼の誠を捧げますと共に、本日ご参列の皆様方のご健勝とご多幸をお祈り申し上げ、祭文のことばと致します。
令和四年四月六日
三重県遺族会津支部
安東分会長 近藤 義行
祭文
本日は津市長始め御来賓の皆様方のご臨席を頂き、津市戦没者慰霊祭が行われました事、心より感謝申し上げ、戦没者の御霊に謹んで追悼のことばを申し上げます。
終戦から早くも七十九年が経ち、人々の記憶からも戦争の痛ましかった事が薄れがちの今、多くの尊い犠牲者のもと今日の日本がある事を忘れてはなりません。
世界では、まだまだ戦争が繰り広げられている所が有ります。非常に信じがたいことです。
私事ではありますが、私は一歳の時に父を失いました。遺骨も遺髪さえも無く、ただの紙切れ一枚での知らせでした。その時の母の思いはいかばかりだったか私には到底知る由も無く、その後の生活も大変苦労しただろうと思います。
私が三歳の頃だと思いますが、当時岩田橋付近で闇市というお店が並んだそうです。
そこに行けば何でも手に入ると言うことで母に連れられて何度か行ったようですが、出掛ける前に私は必ず母に「お母ちゃん早ようお父ちゃんを買いに行こうに」と言って母や叔母を泣かせたそうです。
幼心にも父がどれほど必要だったか、父のいない生活の不思議さがそのような言葉に出たのでしょう。
戦争はむごいです。私達のような戦争遺児を作らない世の中が続く事を願います。
そして今、遺児たちの年齢も八十歳を過ぎ遺族会の存続もなかなか困難になって参りましたが、最近では新世代の会の皆様の出席も有り大変頼もしく有り難い事だと思います。
又、行政の方でもこの会が長く続く事を宜しくお願い致します。
終わりに、戦没者の御英霊のご冥福をお祈りし本日、御参列の皆様方の御健康と御多幸を祈念し私の祭文と致します。
令和六年四月八日
津市戦没者遺族会
津支部 新町分会 佐脇京子
【安芸郡戦没者慰霊祭】
祭詞
今日の佳き日を足る日と定めまして郡内町村長様の変らぬ御厚情によりまして恒例の郡内出身千五百有余柱の戦歿肉身の慰霊の祭典を取り行はさせて頂きますこと、誠に有り難き極であります。又、此処に遺族一同に代りまして祭詞を申述ますこと大変嬉しく存じます。
靜かに世の有様を見ます時、花は匂へ共散りぬるを我世たれぞ常ならんと言ふ古人の言の葉其の儘に、花は匂へども幾時しか散り、或は散るを待づして嵐に誘はれ或は、つぼみの儘萎み果つるさへ有り、世の常ならん有様さも似りであります。
若きが老に先ち衰へたるが壮んなるに後るヽが如く、逆亊勝ちなる、又いとも愛らしき幼児の微笑を見ながら、無き数に入るものさへ有り。日蔭に向ふ草葉の露、嵐の前の燈しみにも譬へられ果敢なきものは人の命で有ります。
君のため、お国のため召されて出て行きました雄々しき皆の御姿、今尚ありありと目に残り、訣れにあたりまして、さけびました萬歳の声尚深く強く耳ぞに残って居ります。
然しながら、七度生れても国恩に報いんと誓いたる清き尊き勲しは、靖国の御社に又、今茲に護国の神として祭られ輝しき功は萬世かけて其の名を仰がるヽ尊き極で御座居ます。
私達遺族は其後大変淋しいものが有りましたが、御来臨の代議士諸先生方並に町村長様方の深き御理解と暖い御厚情に依りまして、終戦二十年今はほんとうに強き明るき朗かな日々を送らしていたヾいて居ります。御霊も共に㐂んでいたヾき度いと存じます。
尚、茲に亊分けて申上度と存じますことは、本年度より国に於きまして八月十五日を終戦記念日とお定めになりまして、内閣總理大臣の御主催の元に天皇皇后両陛下の御幸を仰ぎ、厳かなる慰霊の式典を毎年、毎年取り行っていたヾく亊と相成りまして既に本年度は東京に於きまして取り行なはせられ、我郡より河芸町会長、郡副会長を御厄介願って居ります草深末松氏が代参させていたヾきました。
非常に感慨深いものがあった由で御座居ます。
今後は縣に於きましても、町村に於きましてもかくあろうと存じます時、私共遺族は御霊の遺族で有る亊を深く肝に銘じ強く明るく生き拔くことを今日、今茲に強く御誓ひ申上ます。
御霊よ、幸にして来り享けられ、遺族の身に幸多き様一入の御加護を垂れ給はらん亊を一言以ちまして祭詞といたします。
昭和三十八年八月二十八日
安芸郡遺族会長 村嶋 種
慰霊のことば
本日こヽに私共遺族会相謀り郡内出身戦歿者慰霊の祭典をとり行はせて頂きますことは、私のもつとも㐂びといたす所であります。
尤もこの行亊を取り行させていたヾきますことの出来ますことは、郡内町村長様方が御霊に対しまして、常に敬けんな御氣持ちと私共遺族に対します暖い御心盡しの結果に外ありません。御霊に置かれましても充分其の御氣持ちを御汲取りいたヾき度いと存じます。私共遺族も常に其の御心盡しに対しまして、感謝いたして居りまして、其の御恩に対しまして何かと御役にたちますなれば、御報いヽたし度いと存じて居りますと同時に、常に有難たく感謝いたして居ります。
私し思いますに、年々歳々花相同じ、年々歳々人同じからず。
御霊達が今を去る弐拾数年前、御召しに依りまして天皇陛下の御為、御国のため、又東洋共栄圏確立と世界恒久平和とを念じつヽ勇躍征途に上られ、西に東に北に南に陸に海に、また空に或時は、寒風肌をさす北海に、炎熱焼く南海に良く恨苦缼乏に耐え忍び、善戦に次ぐ善戦の甲斐もなく武運拙なく、或いは敵弾に或いは病魔のため、涙を呑んで異郷の地に華と散られたにも関らず、戦は我に利あらず、昭和二十年八月十五日、天皇陛下の御詔のりを境といたしまして戦は終りました。以後二十年、御霊達が在郷中、あの倶楽部の庭に咲き誇って居りました梅は今も尚、其の時に培し花も多く、色も濃く朝早くから鶯は枝から枝へと飛び交し、其の昔しと少しも変わつては居りません。年々歳々花相同じで御座居ます。
併し、年々歳々人相同じからず。出征に際し、生きて還ると思ふなよ、死して護国の華と散れ、後は俺れが引受けたとあの頑丈な、しかも元氣な御父上も今は早、頭は真白く腰も曲り氣味、あの頃の元氣は今は少しも見受けることも出来ません。人一倍大きく色白の御母様も頭も白く腰も曲り、御躰も半分位に小さくなられ、大おばあさんで御座居ます。
又、御霊等が尤も愛されて居りました、躰は大きい方では有りませんでしたが、目元の愛らしい、ほヽにへぐぼの愛らしき奥様も今は、びんの毛に稍々白く目じりのしわもめつきり増えて参りました奥様。
年々歳々人相同じからずで御座居ます。
其れに引き替へ、アノ赤いランドセル背負つて小学一年に通学のあの可愛らしき御嬢様も立派に生長せられ、今は早や二人の子の御母様で御座居ます。
出征の時、おばあさんに負んぼして小さい日の丸の旗を振つて、萬歳萬歳と片言いつて見えましたあの坊ちゃんも一昨年、村内稀な奥様を嫁取られ、今は早や赤ちやんも御生れになり淋しい乍らもだんらんの家庭で御座居ます。これを御照覧なります時、御霊も御安堵いたヾけると存じます。何卒御安堵下さい。
今や敗けたりと謂共も御霊等が念じて居られました東洋の共栄圏は成り、東洋の殖民国は殆んどが獨立し、日本も世界の国々が驚く計りの経済成長をいたして居ります。したがいまして、私共遺族に対します国の処遇も大へん厚くなつて参りました。
昭和二十七年には遺族援護法、仝二十八年には恩給法の復活、現在に於きましては兵の階級に於きまして七萬弐仟円の扶助料を、又、三十八年には戦歿者妻に対する特別加給金が支給せられて居ります。
併し乍ら、国の経済成長に伴ないまして物価は上昇し、国民の生活水準は年々非常に髙くなり、文官等の給与も髙く、其の格差は大きく開いて参りましたに付きまして、本年度に於きましては縣、国遺族会幹部の方々の熱意に依りまして扶助料の増額を内閣及国会に請願して頂きました。内閣も良く諒解していたヾき、国会議員の方々の協力も得まして、本国会に於きまして兵の階級に於きまして九萬参仟五百円又、御霊の祭祀を行ふための祭祀料参萬円の線を認められ、本国会通過も日時の問題と存じます。付きまして、遺族御互いは淋しい乍らも日々稍や安らぎの日暮らしをさせていたヾいて居りますことを御報告いたします。何卒御霊も共に御安堵いたヾき度いと存じます。
御霊に於れましては、永久に護国の神として安らぎ給ひ、希は遺族の身にも一入の幸あります様、御加護給ります様一言以ちまして私の祭祀のことばといたします。
昭和四十年三月十四日
安芸郡遺族会長
村嶋 種
祭詞
慎みて安芸郡縁の戰没者御霊に申上げます。
本日宮柱太き三重県護国神社の大前に宮司殿御奉仕の下、来賓各位、夛数の安芸郡遺族会員参列を辱うし、昭和四十九年度安芸郡戰没者慰霊祭を斎行致します事は感慨無量でございます。
英霊は明治、大正、昭和の激動の世紀に於て尽忠愛国の赤誠に燃え勇戰奮斗只管神州不滅を信じつゝ武運拙なく護国の神と化せられ、殉国の大義に徹しられた英霊の至誠は常しえに靑史に留め後世に伝へねばなりません。
年々此の式典を斎行致し英霊をお慰めする所以も此々御ざいます。
吾等一同心を新にして神鎭りませと祈念申上げます。
戰火収まって三十九年祖国日本は自由と平和に徹し経済大国に進展しつヽも多極外交の試煉、生産の抑制等多くの問題が惹起して居ります。
この秋に当り英霊の礎に持たらせられた平和が消え去る事となく決意を新にする所であります。
郷里安芸郡の山野は今直ほ麗はしく安濃川の水清く志登川の水、尽きることなく豊津ヶ浜の千鳥飛交ふれども経済の伸展と共に工場の進出、ベットタウン造成或いはレジャーの基地として大きく開発され、各町村長リーダシップの下、理想郷建設へと歩を進められて居ります。
遺族会におきましては、英霊の顕彰、慰藉共勵 戰没者の名に恥ずることなく英霊の心髄を肝に命じ今後とも精進所存であります。
どうか世界の平和と繁栄を願ひ安らかに神鎭ませと祈念申上げ祭詞と致します。
昭和四十九年四月一日
安芸郡遺族会長
保地 光男
慰霊のことば
立秋とは申しながら残暑なおきびしい今日、護国神社の御前で安芸郡遺族会の主催で戦没者慰霊祭が御遺族多数御出席のもとに厳しゆくに挙行されるにあたり靜かに眠られる幾多の御霊に対し謹んで哀悼の誠を捧げます。
祖国の不滅と繁栄を信じながら、南海の海に北の果てに尊い身命を捧げられた皆様の御霊の御前でその御遺徳を偲ぶとき万感胸に迫るものを禁じえません。
最愛の肉親を犠牲に捧げられた御遺族皆様方の御心情を拝察するとき御慰めの言葉もございませんが、一家の支柱を失い苦難をのり越えて立派に子弟を養育されてきたその御努力に対して心から敬意を表するものであります。
歳月は移り変りて幾星霜、我が国は大戦の爪跡さえ伺い知れぬほど復興し、御霊の見守られる郷土も山紫水明の昔日にもどりました。
これひとえに御霊の加護のもとに御遺族皆様方の人知れぬ御苦労のたまものと満腔の御同情を捧げます。
この悲しい史実は私達国民総てが永遠に忘れることの出来ないものであり、この尊い犠牲にお応えするためにも御遺族の皆様方と手をたずさへ、より住みよい福祉社会の確立に邁進する所存であります。
御照覧の上、更に我が国土の安泰と民族の繁栄をお護り下さることを切に祈ってやみません。
本日の慰霊祭にのぞみ御霊の御冥福とあわせて御遺族の御多幸を心から祈念いたしまして、慰霊のことばといたします。
昭和五十四年八月二十六日
中勢北部県民局長
田中 功
本日こゝに戦没者ならびに戦災死没者の御遺族多数の御参列の得て、安芸郡出身戦没者慰霊祭を挙行されますことは誠に意義深いことであります。
顧みますれば苛烈を極めたさきの大戦が終結いたしましてから、早くも四十年の歳月が経過いたしましたが、今日こゝに苦難に満ちた往時を偲ぶ時感慨今なお新たなるものがあります。
とくに激しかった戦いにおいて祖國の平和を祈り肉親の幸せに想を馳せつゝ戦火に倒れ、はたまた戦後異境の地で亡くなられた戦没者二千五百余柱のみたまを想うとき痛恨の情胸に迫るを禁じ得ません。
祖國のために身命を捧げられた戦没同胞の崇髙なる精神こそは、永えに語り傳えなければなりません。
我が国は戦後幾多の困難を克服し経済的に繁栄するとともに國際的にも確固たる地位を確立することができましたが、この陰には戦没者の方々の尊い犠牲があったことを忘れてはならないと思います。
私達は帰らざる英霊の犠牲を無にしないためにも先の大戦から学びとった幾多の教訓を生かし、世界の平和と我が国の発展のため今後更に一層の努力を傾注することこそ遺された者の責務であると確信するものであります。
終りに臨み、今なお変ることのない御遺族の深い悲しみに想いをいたし心からお慰め申し上げますと共に皆様方の御健勝をお祈りして式辞といたします。
昭和六十年十月四日
三重縣知事 田川亮三
追悼の辞
戰没者慰霊祭が御遺族多数御出席のもと、厳粛に開催されますに当り、こゝにつゝしんで戰没者諸氏のみたまに申し上げます。
國運を賭した戰爭に尊い生命を捧げられました英霊各位は、いとしい肉親や懷しい郷里を遠く離れ、あるいは山野に、あるいは海洋に家族の平安と祖國の発展を祈りながら、進んで國難に殉ぜられました。
戰後四十年、立派に育つた民主主義のもと、社会の繁栄と隆盛を迎えた現在、戰場に消えた諸英霊並びに言い尽くせぬ困苦を乗り越えられた御遺族の胸中をお察し致しますとき、万感胸に迫るものがございます。
御遺族の皆様の念願でありました、政府總理大臣をはじめとする方々の公式参拝の実現をみました事は、当然の行事であります。私は歴史ある祖國の危急に際し、一命を國家に捧げられた同胞の愛国の至情を寸時も忘れることなく、今後共、力を合わせ、御遺族の援護に努めながら平和と幸せに溢れた社会の建設に邁進して居ります。こゝにみたまの御冥福を祈り併せて御遺族の御多幸を心から祈念し、追悼の言葉と致します。
昭和六十年十月四日
県議会議員 下井 正也
追悼の辞
戰没者慰霊祭が御遺族多数御出席のもと、厳粛に開催されますに当り、こゝに愼しんで戰没者の皆様に申し上げます。
國運を賭した戰爭に尊い生命を捧げられました英霊各位はいとしい肉親や懷しい郷里を遠く離れ、あるいは山野に、あるいは海洋に、家族の平和と祖国の発展を祈りながら進んで国難に殉ぜられました。
戰後四十二年立派に育つた民主主義のもと社会の繁栄と隆盛を迎えた現在、戰場に消えた諸英霊、並びに言い尽くせぬ困苦を乘り越えられた御遺族の胸中をお察し致しますとき万感胸に迫るものがございます。
御遺族の皆様の念願でありました公式参拜の実現を見ました事は当然の行事であります。
私は歴史ある祖国の危急に際し一命を国家に捧げられた同胞の愛国の至情を寸時も忘れることなく、今後共力を合せ、御遺族の援護に努めながら平和と幸せに溢れた社会の建設に邁進しております。
こゝにみたまの御冥福を祈り併せて御遺族の御多幸を心から祈念致しまして追悼の言葉と致します。
昭和六十二年九月二十七日
三重県議会議員
下井 正也
追悼のことば
本日ここに昭和六十二年度安芸郡出身戦没者慰霊祭が、ご遺族多数ご出席のもと、三重県護国神社において挙行されるにあたり、戦没者各位のみたまに対し、謹んで追悼の誠を捧げます。
顧みますれば、さきの大戦が終結いたしましてからはやくも四十二年の歳月が経過いたしましたが遠く郷里を離れ、あるいは山野に あるいは海洋に、家族の平安と祖国の繁栄を祈りながら尊い身命を捧げられました一、六四六柱のみたまを想うとき深い悲しみにつつまれ、痛恨のきわみであります。
最愛の肉親を犠牲に捧げられたご遺族の皆様のご心情を拝察するとき、お慰めの言葉もございません。
一家の支柱を失い、人知れぬご苦労も多かったことと存じますが、幾多の辛苦を乗り越え、立派に子弟を養育され、また、家業に精励されてこられたご協力にたいし、心からなる敬意を表するものであります。
戦後我が国は、髙度な経済成長を遂げ、国際的にも確固たる地位を確立することができました。
このようなすばらしい繁栄と平和の陰には、国のため郷土のために殉ぜられました戦没者の方々の尊い犠牲があったことは言うまでもありません。
私たちはいま、あらためて戦没者諸英霊のご遺徳を偲び、再び悲しみの歴史を繰り返さないよう不断の努力を傾注し、世界の平和と人類の発展をはかることが責務であると信ずるものでございます。
終わりに臨み、みたまのご冥福を祈り、ご遺族皆様のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
昭和六十二年九月二十七日
三重県津地方県民局長
駒田 和馬
追悼のことば
本日ここに三重県護国神社の御霊の御前で、安芸郡戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと厳粛に執り行われますにあたり、戦没者各位のみたまに対し、謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みれば、諸霊は過ぐる戦争において、いとしい家族を残しひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれました。
そうして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず、武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、まことに痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しくついに我が国は、敗戦の憂き目を見るに至ったのであります。
歳月の流れははやく戦後すでに四十二年を経ました。日本は国民の努力により目ざましい発展をとげ、世界注視の的となった今日の繁栄と平和を見ることができましたこと、これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
この間、困苦と悲しみをじっと耐えぬかれて、一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労はいかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、安芸郡住民は力を合わせ明るく住みよい郷土づくりにいそしみました結果、今日このように立派な安芸郡に発展しました。
念願でありました安芸美地区清掃処理センターも立派に完成し、六十一年十一月より稼働、また中勢用水事業はダムも完成し安濃川沿岸地域には本年の田植に一部通水され工事も着々と進み他町村への通水も間近かとなり、農業経営の基盤づくりに大きく寄与できることをご報告申し上げます。
更に住みよい郷土づくりにいそしむ私達のうえに、今後とも変らぬご加護をお与えください。
ここに平和のいしづえとなられた英霊のごめい福をお祈り申し上げ、あわせてご遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
昭和六十二年九月二十七日
安芸郡町村会長
米倉 智
慰霊のことば
昭和六十二年度、安芸郡出身戦没者慰霊祭にあたり、謹んでご英霊の皆様に申し上げます。
ご英霊には、広大な北支、中支、南支那で灼熱の太陽が照りつける南の島々で、うっ蒼たるジャングルで、あるいは寒さが身を切る満州で、国家の安穏と東亜の人々の幸せを願って、強い信念をもってご奉仕くださり、尊い生命を捧げられました。
大東亜戦が終ってから、四十年余がすぎ去った今も尚、戦史やら戦場での生々しい体験が続々と出版されております。
これらどの本にも、ご英霊方の誠心誠意のお働きとご苦労が満載されており、ただただ頭の下がる思いでございます。
皆様の尊い礎がもとになり、私達の国、日本は奇蹟だといわれる程の経済的発展をとげ、日々の生活があの頃に較べて、想像をはるかに越えて豊かになりました。
私達は祖国のため、最愛の肉親のため、自らを捧げられた崇高なるご英霊のお心を旨として、再び戦いが起こることのないように益々国際交流を盛んにして、お互いの理解を深め、平和が維持できる努力を致します。
何卒、永えに安らかにお眠りくださいませ。
皆様在りし日のお姿をしのびつつ、祖国や遺族にご加護あらんことを願い、粗辞を述べて祭文と致します。
昭和六十二年九月二十七日
安濃町浄土寺
小泉 秀善
追悼の辞
戦没者慰霊祭が御遺族多数御出席のもと、厳粛に開催されますに当りこゝに愼しんで戦没者の皆様に申し上げます、国運を賭した戦爭に尊い生命を捧げられました英霊各位はいとしい肉親や懷しい郷里を遠く離れ、あるいは山野に、あるいは海洋に家族の平和と祖国の発展を祈りながら進んで国難に殉ぜられました。
激動の昭和が終り、平成元年を迎え立派に育った民主主義のもと社会の繁栄と隆盛を迎えた現在戦場に消えた諸英霊、並びに言い尽くせぬ困苦を乘り越えられた御遺族の胸中をお察し致しますとき、万感胸に迫るものがございます。御遺族の皆様の念願であります公式参拜の実現を見ますことは当然の行事でありますが、いろいろな意見がありますことは非常に残念でなりません、私は歴史ある祖国の危急に際し、一命を国家に捧げられた同胞の愛国の至情を寸時も忘れる事なく、今後共力を合はせ御遺族の皆様の少しでも、お役に立つ事に努めながら平和と幸せに溢れた社会の建設に邁進してまいります。こゝに「みたま」の御冥福を心から祈念致しまして追悼の言葉と致します。
平成元年十月一日
三重県議会議員
下井 正也
追悼のことば
本日ここに平成元年度安芸郡出身戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと、三重県護国神社において挙行されるにあたり戦没者各位のみたまに対し謹んで追悼の誠を捧げます。
顧みますれば、さきの大戦が終結いたしましてから、はやくも四十四年の歳月が経過いたしましたが、遠く郷里を離れ、家族の平安と祖国の繁栄を祈りながら尊い身命を捧げられました戦没者の方々のみたまを想うとき、深い悲しみにつつまれ痛恨のきわみであります。
最愛の肉親を犠牲に捧げられたご遺族の皆様のご心情を拝察するとき、お慰めの言葉もございません。
戦後我が国は、幾多の困難を克服し経済的に繁栄するとともに国際的にも確固たる地位を確立することができました。
このようなすばらしい繁栄と平和の陰には、国のため、郷土のために殉ぜられました戦没者の方々の尊い犠牲があったことを忘れてはならないと思います。
この悲しい戦争の爪跡は永久にぬぐいさることはできませんが、その尊い犠牲にお応えするためには二度と悲惨な体験を繰り返さないよう、今後一層の努力をすることこそ遺された私共の責務であると信ずるものであります。
終わりに臨み、みたまのご冥福を祈りご遺族皆様のご多幸を心から祈念いたしまして追悼のことばと致します。
平成元年十月一日
三重県中勢福祉事務所長
山口 眞由男
追悼のことば
本日ここに、安芸郡戦没者慰霊祭が、ご遺族多数ご出席のもと、厳粛に執り行われますにあたり、戦没者各位のみたまに対し謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みますれば、諸霊は過ぐる戦争において、いとしい家族を故郷に残し、ひたすら祖国の繁栄を願い、戦線におもむかれました。
そうして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、誠に痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しく、ついに我が国は、敗戦の憂き目をみるに至ったのであります。
歳月の流れは早く、戦後すでに四十四年今や我が国は、国民の努力によりめざましい発展をとげ、世界注視の的となり、戦前は、想像もできなかった今日の繁栄と平和をみることができました。これひとえに、ご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
しかしながら、この間、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐えぬいて、一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労はいかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、わたしたち郷土安芸郡は、住民みんなが力を合わせ明るく住みよい町づくりにいそしみ今日このように活気に満ち溢れ、発展の一途をたどってまいりました。特に中勢用水事業によって、見事に完成した安濃ダムは、満々たる水を、たたえ、また、その基幹となる念願の水路事業は、国営、県営ともに、みなさんのご協力で、早期完成にむけて各地域で施工され、安濃川流域の豊かな田畑を潤し、更に受益地内の関係市町村へとくまなくそそがれる基盤づくりは着々と進みつつあります。
また、進展する高齢化社会に対応するため、昨年十月安濃町に完成された「明合乃里」では、郡内四町村の在宅で体の弱いお年寄りを車で送迎し、入浴、食事などの介護サービスをするデイサービス事業を行っております。社会福祉の方向が、地域福祉へと大きく転換しており、お年寄りはもちろん介護をする家族の方にとっても大きな福音となっております。
私達は、歴史ある祖国の危急に際し、一命を捧げられた同胞の愛国の至情を寸時も忘れることなく今後とも力を合わせ、住みよい郷土づくりにまい進することをお誓いするものであります。ここに謹んで平和の礎となられた英霊のご冥福を祈り、あわせてご遺族の皆様方のご多幸を心から祈念いたしまして追悼の言葉といたします。
平成元年十月一日
安芸郡町村会長
米倉 智
追悼の詞
過ぐる大戦において国難に殉じ数多くの方々が国の内外に於て散華されたことは、私達日本国民にとつて永遠に忘れることの出来ない深い悲しみであり、痛恨の窮みであります。
最愛の肉親を犠牲に捧げられたご遺族皆様方のご心情を拝察するときお慰めの言葉もございませんが、一家の支柱を失い困苦と欠乏に耐えながら立派に子弟を養育し、又家業に精勵してこられたそのご努力に対しては心から敬意を表する次第であります。我が国の発展は今や世界注視の的になり郷土も戦前想像も出来ない繁栄を見ております。
これひとえに戦没者各位のご加護とご遺族皆様方より寄せられたご支援ご協力のたまものであり、こゝに戦没者の霊を皆様方と共にお祭りし平和を祈り健かに生き明日の日本のために心を合わせて努力する旨念じますことは、誠に意義深いものがあると存じます。本日はご遺族の皆様をはじめ関係者多数が相い集まられまして、平和のいしずえとなられた御英霊の尊い献身と犠牲に対し感謝を表します。
私達はさきの大戦から学びとつたこの貴重な教訓をよくかみしめ、今日こそあい携えて生きる世界の一員としての自覚を固くし、恒久的平和を維持するとともに幸福を願って、その福祉社会に万全を期すべく不断の努力を傾注しなければならないと決意を新たにするものであります。
最後にここにみたまのご冥福を祈り、あわせてご遺族皆様のご多幸を心から祈念して私の追悼の詞といたします。
平成三年九月二十八日
三重県議会議員
下井 正也
追悼のことば
本日ここに平成三年度安芸郡出身戦没者慰霊祭が御遺族多数の出席を得て、三重県護国神社において挙行されますことは、誠に意義深いものがあります。先の大戦が終わりを告げてから、早くも四十六年の歳月が過ぎ去りました。本日この式典に臨み苦難に満ちた往時をしのびますとき、感慨なお新たなものがあります。
特にあの苛烈を極めた戦いの中で祖国の安泰を願い家族を案じつゝ戦場に、職域に、あるいは戦災に倒れ、あるいは戦後遠い異郷の地に亡くなられた戦没者の方々に想いを致すとき悲痛の想いが胸に迫るのを禁じ得ません。
心から御冥福を祈るものです。
戦後我が国は、幾多の困難を乗り越えて、国民一人一人のたゆまぬ努力により飛躍的な発展を遂げてまいりました。
この平和で豊かな今日においてこそ戦没者の方々の尊い犠牲を後世に語り継ぐとともに、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久の平和を確立することが我々一人一人に課せられた重大な責務であると信ずるものであります。
本日この式典にあたり、帰らざる人々の尊い願いを無にすることなく、先の大戦から学び取った教訓を深く心に刻み、世界平和の確立と、国際社会と調和した我が国の真の豊かさの実現のため、全力を尽くすことをここに固く誓うものであります。
終わりに臨み、御遺族皆様の今なお変わることのない深い悲しみに想いを致すとともに、皆様の今後の御平安を切に祈念いたしまして追悼のことばといたします。
平成三年九月二十八日
三重県中勢福祉亊務所長 山口眞由男
本日ここに安芸郡戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと、厳粛に執り行われますにあたり、戦没者各位のみたまに対し謹んで、追悼のまことを捧げます。
顧みますれば、諸霊は過ぐる戦争において、いとしい家族を故郷に残し、ひたすら祖国の繁栄を願い、戦線におもむかれました。
そうして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず、武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、誠に痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しく、ついに我が国は敗戦の憂き目をみるに至ったのであります。
歳月の流れははやく戦後すでに四十六年、今や我が国は国民の努力により、めざましい発展をとげ、世界注視の的となり、戦前は想像もできなかった今日の繁栄と平和を見ることができました。
これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
しかしながら、この間、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐え生きぬいて一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労は、いかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、わたしたちの郷土安芸郡は住民みんなが力をあわせ、明るく住みよい町づくりにいそしみ、今日このように活気に満ち溢れ、発展の一途をたどってまいりました。
特に本年、町制施行三十五周年の節目の年にあたります。芸濃町では、この八月に中勢用水安濃ダムサイドに湖水荘がオープンし、安濃町では、総合スポーツセンターの整備が着々と進む中、農業と工業のバランスある町づくりが進められており、美里村では教育、文化、スポーツの拠点施設「みさとの丘」の整備等、自然と調和した村づくりが行われております。
河芸町では、”スタートアップ河芸二〇〇一”を合言葉に本年四月にスタートしましたニューチェリープランのもと、緑の丘、青い海、感性ひかる躍動のある町づくりを推進しております。
このように安芸郡四町村は、それぞれの特性を生かした町づくり、村づくり、人づくりに積極的に取り組んでおります。
安芸郡は行政、文化、経済等の係わりあいも深く、これからは広域的な行政を互いに認識しながら、県下に誇れる町村にしていこうと思います。
本年は第二次世界大戦が始まり五十年にあたりますが、私達は歴史ある祖国の危急に際し、一命を国に捧げられた同胞の愛国の至情を寸時も忘れることなく、今後とも力をあわせ、平和で住みよい郷土づくりにまい進することをお誓いするものであります。
ここに謹んで平和の礎となられた英霊のご冥福を祈り、あわせてご遺族の皆様方のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成三年九月二十八日
安芸郡町村会長
米倉 智
追悼のことば
本日ここに、平成6年度安芸郡出身戦没者慰霊祭がご遺族多数の出席を得て、挙行されるにあたり、苦難に満ちた往時がしのばれ、感慨今なお新たなるものがあります。
先の大戦が終わりを告げてから、早くも四十九年の歳月が過ぎ去りました。あの苛烈を極めた戦いの中で、祖国の安泰を願い、家族を案じつつ、戦場に、職場に、戦災に倒れ、さらには戦後、遠い異郷の地に亡くなられた戦没者の方々を思うとき、悲痛の思いが胸に迫るのを禁じ得ません。心からご冥福をお祈りいたします。
戦後我が国は、敗戦による幾多の困難を乗り越えて、国民一人一人の英知とたゆみない努力により、目ざましい発展を遂げてまいりました。この平和で豊かな今日においてこそ、戦争の悲惨さと、戦没者の方々の尊い犠牲があったことを後世に語り継ぐとともに、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久の平和を確立することが、我々一人一人に課せられた重大な責務であると思います。
この式典にあたり、私たちは、先の大戦から学びとった多くの教訓を改めて深く心に刻み、真に平和で豊かな福祉社会を実現するために、全力を尽くすことをここに固く誓うものであります。
終わりに、戦没者の方々の御霊のとこしえに安らかならんことをお祈りし、また、ご遺族の皆様の今後のご平安を切に祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成六年九月二十五日
三重県中勢福祉事務所長
水谷 紀嘉
本日ここに安芸郡戦没者慰霊祭が、ご遺族多数ご出席のもと厳粛に執り行われますにあたり安芸郡町村会を代表し戦没者各位のみたまに対して、謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みますれば、諸霊は過ぐる戦争において愛しい家族を故郷に残し、ひたすら祖国の繫栄を願い戦線におもむかれました。
そして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず、武運つたなく戦の庭に散華されましたことは誠に痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しく、ついに我が国は敗戦の憂き目をみるに至ったのであります。
歳月の流れは速く戦後すでに四十九年、今や我が国は国民の努力によりめざましい発展をとげ、世界注視の的となり戦前は想像できなかった今日の繁栄と平和を見ることができました。
これひとえに、ご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
しかしながらこの間、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐え生きぬいて、一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労はいかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、私たちの郷土安芸郡は住民みんなが力をあわせて明るく住みよい町づくりにいそしみ、今日このように活気に満ち溢れ発展の一途をたどってまいりました。
安濃町では安濃中央総合公園整備が着々と進められ、この度安濃球場が完成され住みよい町づくりが進められております。
美里村では教育文化とスポーツの拠点「みさとの丘」整備が進められ役場庁舎も完成しました。
芸濃町ではふれあい公園が整備され、錫杖湖畔にキャンプ場と「工芸の郷」がオープンし、産業と観光の均衡のとれた町づくりが推進されております。
河芸町では農業集落排水事業が次々と完成される等、下水路の整備を進めて生活環境づくりに努めるとともに高齢化対策として長寿の森整備の造成に着手する運びとなっております。
このように安芸郡四か町村は、それぞれの地域の特性を生かし町づくり村づくりに積極的に取り組んでおります。
本年はことのほか記録的な猛暑続きで異常な天候となり、各地では深刻な水不足による渇水対策に苦慮しておりますが、幸い安芸郡内では断水被害もなく稲作についても中勢用水の通水に恵まれ大変豊作であると聞きおよびます。
安芸郡四か町村は、お互いが協調連携を密にし、住民福祉の向上のため日夜努力しております。
新しい二十一世紀を迎えるのも間近であり、これからも一層お互いの立場を尊重し共に繁栄でき県下に誇れるまち、むらづくりをめざします。
私たちは歴史ある祖国の危急に際し、命を国に捧げられた同胞の愛国の至情を一時も忘れることなく、今後とも力をあわせ平和で住みよい郷土づくりにまい進することをお誓いするものであります。
ここに謹んで平和の礎となられたご英霊のご冥福を祈り、あわせてご遺族の皆様方のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼の言葉といたします。
平成六年九月二十五日
安芸郡町村会長
米倉 智
慰霊のことば
本日ここに、平成七年度安芸郡出身戦没者慰霊祭が、戦没者遺族多数のご参列を得て、挙行されますことは、誠に意義深いものがあります。
本年は、先の大戦が終結してから五十周年にあたります。今改めてあの苛烈を極めた戦争によって犠牲となられた、多くの人々に思いを致すとき、悲痛の思いが胸に迫るのを禁じ得ません。心からご冥福をお祈り致します。
戦後我が国は、敗戦による幾多の困難を乗り越えて、国民一人一人の英知とたゆみない努力により、めざましい発展をとげてまいりました。この平和で豊かな今日においてこそ、戦争の悲惨さと、戦没者の方々の尊い犠牲があったことを後世に語り継ぐとともに、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久の平和を確立することが、我々一人一人に課せられた重大な責務であると思います。
本日この式典にあたり、帰らざる人々の尊い願いを無にすることなく、先の大戦から学びとった多くの教訓を深く心に刻み、安心して幸せに暮らせる福祉社会の実現のため、全力を尽くすことをここに改めて誓うものであります。
終わりに、戦没者遺族の皆様の今なお変わることのない深い悲しみに思いを致すとともに、皆様の今後のご多幸とご健勝を心から祈念致しまして、慰霊のことばと致します。
平成七年十一月二十五日
三重県中勢福祉事業所長
水谷 紀嘉
代読
追悼のことば
本日ここに、安芸郡戦没者慰霊祭が、ご遺族多数ご出席のもと、厳粛に執り行われますにあたり、安芸郡町村会を代表し戦没者各位のみたまに対して謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みますれば、諸霊は過ぐる戦争において愛しい家族を故郷に残し、ひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれました。そして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず、武運つたなく戦の庭に散華されましたことは誠に痛恨の極みであります。この尊い幾多の犠牲も空しく、ついに我が国は敗戦の憂き目をみるに至ったのであります。歳月の流れは速く戦後すでに五十年、今や我が国は国民の努力によりめざましい発展をとげ世界注視の的となり、戦前は想像できなかった今日の繁栄と平和を見ることができました。これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。しかしながらこの間、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐え、生きぬいて、一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労はいかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、私たちの郷土安芸郡は、住民みんなが力をあわせて明るく住みよい町づくりにいそしみ、今日このように活気に満ち溢れ発展の一途をたどってまいりました。安濃町では地域づくり推進事業が着々と進められ、文化ホール、保健センター等平成八年完成を目指し住みよい町づくりが進められております。美里村では下水集落排水事業を推進し、生活環境整備が進められています。芸濃町では平成七年度よりコスモゾーン事業を推進し、町民の教育文化とスポーツの拠点となる文化ホール、体育館等の建設が進められ、河芸町では、農業集落排水事業の完成と美化センター建設を進め、生活環境づくりに努めるとともに、高齢者福祉の拠点となる施設を平成八年完成に向け建設が進められております。このように安芸郡四か町村はそれぞれの地域の特性を生かし、町づくり村づくりに積極的に取り組んでおります。
本年も昨年に続き記録的な猛暑続きで異常な天候となり、各地では深刻な水不足による渇水対策に苦慮しておりますが、幸い安芸郡内では断水被害もなく稲作についても中勢用水の通水に恵まれ大変豊作であったと聞きおよびます。安芸郡四か町村はお互いが協調連携を密にし、住民福祉の向上のため日夜努力しております。新しい二十一世紀を迎えるのも間近であり、これからも一層お互いの立場を尊重し共に繁栄でき県下に誇れるまち、村づくりをめざします。
私たちは、歴史ある祖国の危急に際し、命を国に捧げられた同胞の愛国の至情を一時も忘れることなく、今後とも力をあわせ平和で住みよい郷土づくりにまい進することをお誓いするものであります。ここに謹んで平和の礎となられたご英霊のご冥福を祈り、あわせてご遺族の皆様方のご多幸を心から祈念いたしまして追悼の言葉といたします。
平成七年十一月二十五日
安芸郡町村会長 米倉 智
慰霊のことば
馥郁として菊の香薫る本日ここに戦没者遺族及び各界代表者多数のご出席をいただき、平成8年度安芸郡出身戦没者慰霊祭が挙行されるにあたり、謹んで慰霊のことばをささげます。
苛酷を極めた先の大戦が終りを告げてから五十一年の歳月が過ぎ去りました。はげしい戦火の中で、故郷と故国の安泰を願い、家族を案じつつ、戦場に散り、戦禍に倒れた多くの方々の痛ましい最期に思いを馳せ、また最愛の肉親をなくされ、悲しみと永い苦難の日々に耐えてこられたご遺族のご苦労を思うとき、痛恨の情、胸にせまるのを禁じえません。心から御霊のご冥福をお祈りいたします。
戦後私たちは、廃墟の中から立ち上り、不断の努力を重ねて、幾多の困難を乗り越え、平和で豊かな国家を築き上げるとともに、地域の発展に貢献してきました。この平和と繁栄に満ちた今日こそ、戦後五十一年をふりかえり、悲惨な戦争で散華された幾多の尊い犠牲があったことに認識を新しくし、戦争を知らない若い世代に語り継いでいかなければなりません。
本日、この式典にあたり、私たちは改めて戦争の悲惨さを貴重な教訓として深く心に刻み、再び同じ過ちをおかすことなく、恒久平和と豊かで幸福な社会を実現するために全力を尽くしていく所存であります。そして二十一世紀に向けて急速に進展する高齢社会のなかにあって、福祉施策を的確に推進するなど、県民だれもが安心して心豊かに暮らせる福祉社会の実現のため、より一層努力していくことを御霊の前に堅くお誓い申し上げます。
終わりに、戦没者御遺族各位の深い悲しみに思いを致すとともに、みなさまの今後が平安でありますことを祈念いたしまして、慰霊のことばといたします。
平成八年九月二十八日
三重県中勢福祉事務所長
村田 博安
追悼のことば
本日ここに、安芸郡出身戦没者慰霊祭が、ご遺族の皆さまをはじめ、多数のご来賓のご出席のもと、厳粛に執り行われるにあたり、安芸郡町村会を代表して謹んで追悼と慰霊の言葉を捧げさせていただきます。
今、私たちは平和で、豊かな生活環境の中で日々、生活をいとなんでおりますが、先の大戦では、軍人・軍属の方々はもとより、徴用、あるいは学徒動員などで多くの方々が、ひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれ、尊いいのちを国に捧げられました。
この尊い幾多の犠牲も空しく、我が国は敗戦の憂き目をみるに至りました。歳月の流れは速く昨年戦後五十年を迎えましたが、私たちにとつては、戦争の悲惨さと、平和の尊さを改めて考えさせられた大変意義深い年でありました。しかしながら、ご遺族の皆さまにとりましては、いまなお、戦後の長い日々を忘れることなくお過ごしのこととご拝察申し上げます。
今日、我が国は国民の努力によりめざましい発展をとげ、世界の先進国として、戦前では想像できなかった繁栄と平和を見ることができました。これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。この間、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐え、生きぬいて一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労はいかばかりであったろうかと、そのご心情に思いをいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
私は本年八月一五日に東京武道館において行われました全国戦没者追悼式に参列し、天皇陛下、皇后陛下ご臨席のもとで、全国の市町村を代表して戦没者の霊に献花を捧げる機会を得ました。英霊の御霊に哀悼のまことを捧げるとともに、改めて多くのご遺族の深い悲しみと、長年のご労苦に対しこころからねぎらいを申し上げさせていただいたところであります。
さて、私たちの郷土安芸郡は、二十一世紀に向け住民みんなが力をあわせて平和で住みよい町づくりに取り組み、今日このように活気に満ち溢れ発展の一途をたどってまいりました。
安濃町では地域づくり推進事業が着々と進められ、サンヒルズ安濃(保健福祉文化センター)が完成し、健康で文化的なまちづくりが進められております。
美里村では農業集落排水事業が計画的に実施され、生活環境整備が積極的に進められています。
芸濃町では本年が町政施行四十周年という記念すべき年を迎えております。教育文化の拠点となる総合文化センターが完成し、教育・文化の振興が図られております。
河芸町では本年度美化センターの完成により、さらに生活環境づくりに努めるとともに、長寿の森整備事業が終り、特別養護老人ホーム、町のほほえみセンターなどが一体となった保健・福祉活動の推進を図っていきます。
このように安芸郡四か町村はそれぞれの地域の特性を生かし、住民参加の町づくり村づくりに積極的に取り組んでおります。
今、私たちを取りまく社会の情勢は複雑かつ急激に変化しており、行政改革、景気対策、エイズ問題など政治、経済、社会問題も多く山積しております。このような中でも安芸郡四か町村はお互いが協調連携を密にし住民福祉の向上のため日夜努力しております。新しい二十一世紀の時代を迎えるのも間近であり、これからも一層お互いの立場を尊重し、共に繁栄でき県下に誇れるまち、村づくりをめざします。
私たちは今、歴史の中で、国を思い、家族を思い尊い命を国に捧げられ平和の礎となられたご英霊のご冥福を祈るとともに、あわせてご遺族の皆様方のご多幸を心から祈念いたします。そして、今後とも力をあわせ平和で住みよい郷土づくりにまい進することをお誓いし、ここに謹んで追悼の言葉といたします。
平成八年九月二十八日
安芸郡町村会長 米倉 智
追悼のことば
本日ここに、安芸郡出身戦没者慰霊祭が、ご遺族の皆さまをはじめ多数の関係者のご出席のもと、厳粛に執り行われるにあたり、安芸郡町村会を代表して、謹んで追悼の言葉をささげます。
先の大戦では、軍人、軍属の方はもとより、徴用、あるいは学徒動員などで多くの方々が、ひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれ、尊い命を国に捧げられました。この尊い幾多の犠牲も虚しく、わが国は敗戦の憂き目をみるに至りました。
歳月の流れは速く、今年は戦後五十二年を迎えておりますが、私たちは今なお戦争の悲惨さと平和の尊さを忘れることなく、次代に語り継ぎ、やがて迎える二十一世紀には、真に世界の平和が訪れることを願っております。
ご遺族の皆さまには、忘れることのできない深い悲しみの中で、あらゆる苦難に耐え、一家の隆盛を支えてこられました。また、荒廃した郷土の復興と発展にも積極的に取り組まれ、現在の安芸郡の繁栄に大きくご尽力いただいております。皆さまの長年のご労苦に対し、心から敬意と感謝を申し上げる次第であります。
今日わが国は、国民の努力により世界の中でも先進国としてめざましい発展を遂げております。唯一被爆国である日本は、今後世界の平和と人類の幸福を願い、その中心的な役割を担っていかなければならないと考えております。
さて、私たちの郷土安芸郡は、新しい世紀に向け、住民皆が力を合わせて、平和で住みよい町づくりに取り組み、今日このように活気に満ち溢れ、発展の一途をたどって参りました。
二十一世紀の扉が開かれようとしている今日、地方自治体は大きな変革の時期を迎えており、特に本年は日本国憲法、地方自治法施行五十周年という意義ある年でもあります。安芸郡の四か町村は、地方自治体の役割がますます重要になってきている中で、自らの創意と工夫を軸にそれぞれの地域の特性を生かした個性あるまちづくりに取り組んでおります。これからも一層お互いの立場を尊重し、ともに繁栄でき、県下に誇れる郷土を目指し、お互いが協調連携を密にして、住民福祉の向上のため昼夜努力してまいる所存であります。
今、私たちを取り巻く社会の情勢は、複雑かつ急激に変化しています。国際化、情報化、さらには、少子化・高齢化が進み、それらにともない様々な課題が山積し、これらに対処していかなければなりません。
特に、人権、教育、環境、福祉の問題は生活者重視、身近な行政といった観点からも今後ますます重要な課題として施策の推進を図っていかなければならないと考えております。
皆さまにも、今後ますますのお力添えをいただきますよう心からお願い申し上げる次第であります。
私たちは今、歴史の中で、国を思い、家族を思い、尊い命を国にささげられ平和の礎となられたご英霊のご冥福をお祈りするとともに、あわせてご遺族の皆さま方の今後ますますのご多幸を祈念いたします。
そして、皆さまとともに、力を合わせて平和で住みよい郷土安芸郡の建設に邁進することをお誓いし、ここに謹んで哀悼のまことをささげます。
平成九年九月二十七日
安芸郡町村会長 米倉 智
朝夕はめっきりと涼しくなりました本日、ここ護国神社におきまして、多数のご来賓のご臨席を賜ると共に、遺族の皆様方のご参列で、安芸郡戦没者慰霊祭が、かくも厳粛に執り行われるにあたり、遺族を代表致しまして謹んで戦没者ご英霊に祭文を奏上致します。
返り見ますれば、あの大戦が終結して、はや52年の歳月が過ぎ去りました。
この52年間、日本の国は、著しい発展をとげ、平和な生活を送らせて貰っておりますこの今日の平和と繁栄には、あなた方ご英霊の、尊い生命を、国のために捧げられた賜ものであります。
愛する日本のため、身を持って国の礎となり、命を捧げられた、崇高な至情が胸にせまり、痛恨の極みでございます。
一家の柱を失った私たち遺族は、困難辛苦の毎日でございましたが、これに耐えて今日に至りました。
夫を国に捧げた私たちも、もう80才前後のお婆さんとなり、また、他界して、あなた方のそばに行かれた方も多数を数えます。
当時、あなた方の顔も覚えていないあなたの子供達も、50才を過ぎ、孫の顔を見る年頃となりました。
あなた方の出征当時の時を考えますと、今昔の感に堪えがたいものが有ります。
あなた方が亡くなられた後は、実に厳しい言葉では言い表せないほどの風雪の毎日でございました。
しかし、幾多の困難にも耐え、頑張ったお蔭で、今は平和な生活を、毎日送らせてもらっております。
二度とあの悲惨な戦争のない平和な現在の日本を世界を守り続ける事が、私たち遺族に課せられた使命であると考えます。
どうか、御英霊の皆様、安らかにお眠り下さい。
平成九年九月二十七日
遺族代表 今井 みや
追悼のことば
本日ここに、戦没者ご遺族をはじめご来賓の皆様方多数のご参列を得て平成十一年度安芸郡出身戦没者慰霊祭が挙行されるにあたり追悼のことばをささげます。
先の苛烈を極めた大戦の中で、祖国の安泰を願い、家族を案じつつ戦場に散り、戦火に倒れさらには遠く異郷の地で亡くなられた戦没者の御霊に思いをいたすとき感慨今なお新たなものがあり、胸ふさがる思いがします。心からご冥福をお祈り申し上げます。
また、最愛の肉親をなくされ、悲しみと永い苦難の日々に耐えてこられたご遺族のご苦労を思う時、悲痛の思いが胸に迫るのを禁じ得ません。
戦後、私たちは、一人ひとりの英知とたゆまない努力によって幾多の困難を乗り越えめざましい発展をとげてまいりました。
この繁栄の陰には皆様方の尊い犠牲があったことをけっしてわすれません。
しかしながら、時代が移り、戦争体験のない世代が多数を占める中で、この痛ましくも貴重な歴史の教訓を忘れがちな世の中になっております。
二十一世紀を目の前にして世界においては、今なお武力による紛争が絶えない地域がございますが、今日においてこそ自らの歴史を反省し、戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを若い世代に語り継いでいかなければなりません。
本日、この式典にあたりわたしたちは、帰らざる人々の願いを無にすることなく、二度と戦争の惨禍を繰り返すことのないよう恒久の平和を確立することが私たちに課せられた責務であると考えます。
また、美しい郷土三重を守り、高齢社会の中にあって、県民だれもが安全で安心なゆとりのある成熟した福祉社会実現のためより一層努力していくことを固くお誓い申し上げます。
終わりに、戦没者の方々の御霊の安らかならんことを心からお祈りし、ご遺族の皆様のご多幸を祈念いたしまして追悼のことばといたします。
平成十一年九月二十五日
三重県中勢福祉事務所長 吉川 巖
追悼のことば
本日ここに、戦没者のご遺族をはじめ、多数の皆様の出席を得て、平成十二年度「安芸郡戦没者追悼式」が、挙行されるにあたり、つつしんで、哀悼の言葉を申し上げます。
先の大戦が終わりを告げてから、五十五年の歳月が、過ぎ去りました。苛烈を極めた戦いの中で、祖国の安泰を願い、家族を案じ、戦場に散り戦火に倒れた、戦没者の御霊に思いをはせ、残されたご遺族の悲しみを思う時、悲痛の思いを禁じ得ません。心からご冥福をお祈りいたします。
戦後、我が国は、焦土の中から立ち上がり、平和を国是とし、国民一人一人の努力により、幾多の困難を乗り越え、発展をとげてまいりました。
今では戦争を知らない世代が多数を占めるにいたりましたが、この平和な今日においてこそ、過去を謙虚に振り返り、今日の繁栄の礎に幾多の尊い犠牲があったことを、忘れることなく、若い世代に語り継いでいかなければなりません。
二十一世紀を目前にしている、今日においても、世界では今なお、緊張が緩和されていない地域があります。こうした国際情勢の中で、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久の平和確立に貢献していくことが現代に生きる私たちに課せられた最大の責務であります。
そして、このことが、過去に対する償いとなり、犠牲となられた方々の御霊に報いることであると、確信しております。
本日、この式典にあたり私たちは帰らざる人々の尊い願いを無にすることなく、先の大戦から学びとった、多くの教訓を深く心に刻み、世界の平和と心豊かに暮らせる社会の実現の為、全力を尽くすことをここに改めてお誓い申し上げます。
終わりに、戦没者ご遺族の皆様の今なお消えぬ深い悲しみに思いをいたしますとともに、ご遺族の皆様のご多幸を祈念しまして、追悼の言葉といたします。
平成十二年九月二十四日
三重県中勢福祉事務所長
北角 幸朗
慰霊の辞
暑かった夏も過ぎ、早や野辺の彼方此方には彼岸花が咲き競うさわやかな季節となりました。
本日こゝに安芸郡戦没者慰霊祭を護国神社の御前に於いて斎行するにあたり、郡内各町村長様を始め多数の御来賓者方々の御臨席を賜わりましたことは私達遺族にとって感謝の気持が一杯です。厚く御礼申し上げます。
先の大戦は日本国が自存自衛の爲、国体の命運を賭けた戦いでありましたが、連合国軍の圧倒的な戦力、物糧に抗い得ず、国土は米軍機の空襲で焦土と化してしまい、昭和二十年八月十五日の天皇陛下の詔勅をもって終焉しました。敗戦の憂き目を見た一億国民は、貧苦のどん底に突き落されましたが、持前の質実剛健な気質をもって国土の再建に取り組み、奇跡とも云える驚異的な経済成長を遂げ、一躍世界有数の先進国へと変貌し、豊かで平和な国家に生まれ変りました。しかし、国民の大多数が何時しかこの繁栄の陰に幾多の兵士が散華し、犠牲となられた事を忘れ去っている事は誠に遺憾の極みであります。戦後の日本は米国主導型で復興し、飛躍的な経済発展を遂げましたが、反面、青少年に対する教育方針は大きく変革し、日本人の美徳とされた気風は全く影を潜めてしまいました。
かっての英霊の戦功も総て否定され、反逆者、亦破壊手段として後世に伝えられようとしています。私達は今一度冷靜に史実を見詰め、太平洋戦爭戦没者二一三万余柱の忠魂を称え、顕彰すると共に祖国の興隆と家族の安泰を念じつヽ身命を捧げて戦い、崇髙な死を遂げた英霊に報いる爲にも戦爭の悲惨さを胸に「不戦の決意」を全世界に向けて発信していかねばなりません。私事ながら我が家族も太平洋戦爭の勃発により大きな変化が生じました。
私の父は昭和十八年十二月に三十九才で召集令状を受け、翌十九年七月には戦局不利の中、激戦の続くサイパン島の死守に送り込まれましたが、上陸して間もなく敵の砲弾を受け、戦死しました。
当時中学一年生の私は県の世話課で空の遺骨箱を受取り、此れを胸に抱いて炎天下の田舎道をとぼとぼと我が家に帰り、無事仏壇に安置した事を思い出します。母は三十三才の若さで寡婦となりましたが、何一つ愚痴る事なく、ひたすら祖父母に仕えると共に幼ない私達三人の子供を育て、苦しい中皆な平等に髙等学校まで行かせて呉れました。
その母も今年の八月で満八十九才となり、今では昔日の体力、気力共に衰え失せ、病院のベッドに臥す毎日と変り果てました。こヽで母が健康なりし今年の冬に現在の心境を詠んだ拙ない短歌を披露させて頂き、無き父に捧げます。
召され征き亡父は三十路で散り逝けど
われは八十路を今日もあゆまん
扱て過去の戦爭により御社に神と祀られし安芸郡四町村出身の一四〇〇余柱の遺族である一〇〇〇余世帯の内、戦没者の親又妻達も年々減って今では一一〇余名となりました。
その内の大多数の方々が八十才を超え、英霊の祭祀もまヽならぬ状態となってまいりました。私達遺児も亦今では大半が六十才代の髙令者となりましたが、今後は何んとか老いたる母親達を支え、共に英霊の護持、遺族会の運営に精励せん事を神の御前で誓詞し、慰霊の辞とします。
平成十二年九月二十四日
安芸郡遺族会代表
遺児 行方 隆男
祭詞
秋晴の今日、安芸郡戦没者慰霊祭が茲三重県護国神社に町村長会会長様始め、各界からご来賓多数と遺族のご参列の下嚴粛に斎行されます事を喜びと致します。
私は七才の時にマリヤナ方面で父が戦死しました。この世に生をうけヤツト会話の出来る喜びも束の間父は戦場に赴き、やがて一通の公報が届き母からお父さんが南方で戦死したよと聞き、思わず父の写真にだきついた思いがあります。
食糧のない苦難の時代に父がわりに暮らしをさヽへ、子供の養育に健気に働く姿を見て遺児の私達以上に母の悲しみは想像以上であったと思います。
国策とは言へ赤紙一枚で召集され、極めて環境の悪い戦場にかり出されしれつな戦いで武運つたなく多数の犠牲がありました。
戦後荒廃した国土も国民の懸命な努力で見事に復興し、戦没者遺族にも処遇措置が図られましたが、遺族の望む靖国神社の国家護持と公式参拝の実現が道程遠く残念至極であります。
小泉総理自ら終戦の日に英霊に感謝の誠を捧げ、世界平和を祈念するため靖国神社参拝を明言されたにも拘らず、中国韓国の干渉に国会議員までが外圧に委縮したのか、反対の態度を示した事はまことに残念であります。
昭和初期アジアの国々は欧米の植民地として不当に奴隷扱いを受け、自国の資源や経済は凍結封さされ自由は束ばく、他方ソビエトは不凍港を求め朝鮮半島や東南アジア進出の画策により、近隣諸国とトラブルを起し圧力をかけていた事は衆知の通りであります。之等の行爲に対し阻止のため、大東亜共栄の正義感から海外派兵の行動に出て多勢に無勢の不利の立場で敗戦となり、侵略国の汚名を背負ったのであります。
願わくは過去における歴史の推移と真実の両目に説明、隣国として向う三軒両隣りたとへのようにわだかまりを廃除し、あたヽかい人類愛の上にたつて互いの繁栄と平和構築に努力する事が最善の方策であり、わが国としても大いに英霊の顕彰に値するものであります。国会においても與野党が人間味のある処方で団結し、靖国問題の正当性を立証し二百五十万の御霊が安らかに鎮座出来る場となる様望みます。そしてこれが世界の恒久平和につながる大切な礎となる事を望みます。
終りにみ霊の安らかな鎮座と公私ご多用の中、ご参列の各位に謹んでお礼を申し上げ祭詞と致します。
平成十三年九月三十日
安芸郡遺族代表
中西 恒美
追悼のことば
本日ここに三重県護国神社の御霊の御前で、安芸郡戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと厳粛に執り行われますにあたり、戦没者各位のみたまに対し、謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みれば、諸霊は過ぐる戦争において、いとしい家族を残しひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれました。
そうして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず、武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、まことに痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しく、ついにわが国は敗戦の憂き目を見るに至ったのであります。
歳月の流れははやく戦後すでに五十七年を経ました。日本は国民の努力により目ざましい発展をとげ、世界注視の的となった今日の繁栄と平和を見ることができましたこと、これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
この間、困苦と悲しみをじっと耐えぬかれて、一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労はいかばかりであったろうかと、胸中をお察しいたしますとき万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、安芸郡住民は力を合わせ明るく住みよい郷土づくりにいそしみました結果、今日このように立派な安芸郡に発展しました。
現在、安芸郡として「津市・久居市・安芸郡・一志郡合併協議会」へ参加し、厳しい財政状況への対応や地方分権型社会の構築のため鋭意協議を重ねている所であります。今後も住民説明会など開催し、新しい市町村のあり方について、また質の高い行政サービスの提供を行えるかなど住民の皆さまと一体となり進めてまいりたいと存じます。
更に住みよい郷土づくりにいそしむ私達のうえに、今後とも変わらぬご加護をお与えください。
ここに平和のいしづえとなられた英霊のごめい福をお祈り申し上げ、あわせてご遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成十四年九月二十九日
安芸郡町村会長
横山 雅宏
追悼の言葉
本日ここに安芸郡戰没者の慰霊祭が挙行されるに当り、合祀関係町村の戰没者遺族を代表して敬々しく神前に額づき追悼の誠を捧げます。
十年一昔と申しますが、戦争が終って、早五十七年、残された妻達も半分以上が、ご英霊のお傍へと旅立っていきました。
残された子供達も立派に社会人として世の中のために働き続け、今や六十才七十才に成った者もいます。
この年まで無事務めを果し元気で過して居られますのは、皆ご英霊のご加護の賜と深く感謝するものでご座居ます。
顧りみますれば、ご英霊の皆様には過去幾度の戰において祖国日本の必勝と郷土の安泰、肉親の幸せを心に念じ乍ら遠い異国の空の下で無念の最期を遂げられました。
ご英霊に思いを至する時、永遠の深い悲しみであり痛恨の念が胸に迫るを禁じ得ません。私達遺族は再びあのような悲惨な地獄のような戰爭が二度と起きないよう平和の有難さを子々孫々に至るまで正しく語り継ぐことを固くお誓い申し上げます。
終りに臨み、神々しい護国神社の神前でご英霊に額づき安らかに鎮まりますことをお祈り申し上げ追悼の言葉と致します。
平成十四年九月廿九日
安芸郡遺族会
代表 古市 忠生
追悼のことば
本日ここに三重県護国神社の御霊の御前で、安芸郡戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと厳粛に執り行われますにあたり、戦没者各位のみたまに対し、謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みれば、諸霊は過ぐる戦争においていとしい家族を残し、ひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれました。
そうして幾たびかの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず、武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、まことに痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しく、ついにわが国は敗戦の憂き目を見るに至ったのであります。
歳月の流れははやく戦後すでに五十八年を経ました。日本は国民の努力により目ざましい発展をとげ、世界注視の的となった今日の繫栄と平和を見ることができましたこと、これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
この間、困苦と悲しみをじっと耐えぬかれて一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労は、いかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと、安芸郡住民は力を合わせ明るく住みよい郷土づくりにいそしみました結果、今日このように立派な安芸郡に発展しました。
現在、安芸郡として「津地区合併協議会」へ参加し、平成十七年一月を目標に津市・久居市・一志郡四町村とともに各種事業や事務の調整を図っているところです。合併後は、津市となりますが、安芸郡の地域はそれぞれ町として存続していくことになります。行政の責任者として地方分権社会の構築、財政上の合理化を進めなければなりません。しかし、より質の高い行政サービスの提供を行えるよう誠心誠意努力してまいりたいと存じます。更に住みよい郷土づくりにいそしむ私達のうえに今後とも変らぬご加護をお与えください。
ここに平和のいしづえとなられた英霊のごめい福をお祈り申し上げ、あわせてご遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成十五年九月二十八日
安芸郡町村会長
横山 雅宏
追悼のことば
本日、ここに三重県護国神社の御霊の御前で、安芸郡関係の各町村長、議会議長様方のご臨席を賜り、また、遺族の多数の参拝をいただきながら、安芸郡戦没者慰霊祭をこのように開催して頂き誠にありがとうございました。
ここに遺族を代表し御英霊の皆様に対し、謹んで追悼の誠をささげます。
御英霊の皆様方は、アジアの平和と祖国繁栄のため、勝利を信じつつ愛する妻、子供、両親、幼い兄弟を家に置いたまま戦地で敵と戦い、また、暑さ寒さ、雨・風や病気並びに食料不足とも戦いながら奮闘された。それにもかかわらず、武運つたなく戦いの庭に散華されましたことは、痛恨の窮みでございます。
時の流れは速く、戦後すでに五十八年が経過しましたが、その後の安芸郡も住民全員の努力により目覚ましい発展をとげ、今日の繁栄と平和を見ることが出来ましたこと、これひとえに御英霊のお導きと御加護の賜物と深く感謝申し上げます。
五十八年経った今、遺族会会員も御英霊の御両親は数名のご存命で、ご兄弟や妻の皆様方も高齢化が進み、遺児たちも最少年齢が還暦を迎える歳頃となりました。
私事になりますが、いま、私は六十三歳になりました。父は、私を母のお腹に宿したまま戦地から帰りませんでした。
三つ上の姉は覚えていると言いますが、私は父を写真の顔しか知りません。
母は小さな二人の子供をとにかく一生懸命育ててくれました。毎日田畑に出ていて、私は汗臭い母の匂いしか覚えていません。その母も十分な親孝行も出来ないまま、十七年前に七十一歳で他界しました。いま、あの世で孫のような顔をした父から「おまえ、ふけたなー」なんて言われているのでしょうか。これからも、ふたり仲良く家族を見守ってください。
私たち遺児達も小さかったころ、子供なりに色々の面で苦労しましたが、ご英霊のご加護と母や祖父母・親戚・近所、地域の皆様のお陰で道を誤り無く大きくなり、いま、遺児の皆んなは、良いおじいちゃん、おばあちゃんに成りました。
現在、安芸郡も市町村合併に向けての準備がされています。郡の遺族会がどのような組織に成るかも解かりませんが、何れにしましても、私たち遺族会は御英霊の皆様方は基より、育ててくれた母や祖父母・親戚・近所、地域のお世話になった皆様に感謝をしながら、常に英霊を顕彰し、そうした行為を通じて、これからも戦争が無い平和な世界になっていくよう後世に伝える活動を続けていく事をお誓い申し上げ、追悼の言葉といたします。
平成十五年九月二十八日
遺族代表 長野 利隆
追悼のことば
本日、ここに三重県護国神社の御霊の御前で、安芸郡戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと厳粛に執り行われますにあたり戦没者各位のみたまに対し、謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みれば、諸霊は過ぐる戦争においていとしい家族を残しひたすら祖国の繁栄を願い戦線におもむかれました。
そうして幾たびの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、まことに痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しくついにわが国は敗戦の憂き目を見るに至ったのであります。
歳月の流れははやく戦後すでに五十九年を経ました。日本は国民の努力により目ざましい発展をとげ世界注視の的となった今日の繁栄と平和をみることができましたこと、これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
この間、困苦と悲しみをじっと耐えぬかれて一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労は、いかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき、万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと安芸郡住民は力を合わせ、明るく住みよい郷土づくりにいそしみました結果、今日このように立派な安芸郡に発展しました。
現在、安芸郡として「津地区合併協議会」へ参加し、鋭意協議を重ねて参りました。残すところ合併の期日のみとなりました。今後は郡民の皆さまと一体となり新しい町づくりを進めてまいりたいと存じます。
更に住みよい郷土づくりにいそしむ私達のうえに今後とも変らぬご加護をお与えください。
ここに平和のいしづえになられた英霊のごめい福をお祈り申し上げ、あわせてご遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成十六年九月二十六日
安芸郡町村会長
横山 雅宏
慰霊の辞
さわやかな初秋の季節となり、伊勢平野が黄金色に稔った豊作の稲の収穫も終り、本日ここに安芸郡戦没者慰霊祭を斉行されるに当り、町村長様を始め、ご来賓多数の御臨席をいただき、遺族一同この上もない喜びと存じます。
郡遺族会遺児を代表して謹んで、慰霊のことばを述べさせていただきます。まず、私事でございますが、父は十八年に三回めの召集で出征したきり、帰らぬ人となりましたが、思えば母と妹と三人で終戦後、津の復員亊務所へ父の安否を尋ねに何度も行きました。また、少しの話のつてを求めてあちこち尋ね歩きましたが、何の手掛りもつかめないまヽ一ヶ年が過ぎた頃、戦死の公報と遺骨を引取りました。子供の私には父の死がそれほどのことかわからないまヽでしたが、母は深い悲しみのどん底に落ち込み泣いていましたが、その後、気強く私たちを見守ってくれました。
母の愛、それは後家の子と言はれて馬鹿にされては亡くなったお父さんに申訳ないともらしていました。
そのお蔭で無事成人を迎えることが出来、妹も嫁がせ、これから母に孝養したいと思っていた矢先、今迄の苦労が重なった為か、一ヶ年余りの患いで四十三才の生涯を終へました。一人になった私は、何でこうも不幸が続くのかと悩みもしましたが、自分で精一ぱい頑張るより道はないと信じ、またこのことが亡き両親が喜んでくれることであり、私達を見守ってくれることと思い努力してまいりました。
お蔭様で健康にも恵まれ今日では、長男夫婦と孫二人の六人家族で幸せな生活をしております。これも全て英霊の加護があり、そのおかげさまと感謝してをります。
私共のような戦爭によっての辛酸をなめることなく、父の死を無駄にしない為にも、不戦の決意を確認していきたいと思っております。
我が国は今日、平和で豊かな文明国家として繁栄を極めておりますが、こうした繁栄の陰には尊い犠牲となられた御英霊のあることを忘れてはなりません。その亊を私達は子から孫へと伝えることを誓います。
この美しい日本が、平和で行く末長く護持出来ます様にお守り下さいませ。
平成十六年九月二十六日
安芸郡遺族会
遺児代表
福西 吉千
追悼のことば
本日、ここに三重県護国神社の御霊の御前で、安芸郡戦没者慰霊祭がご遺族多数ご出席のもと厳粛に執り行われますにあたり戦没者各位のみたまに対し、謹んで追悼のまことを捧げます。
顧みれば、諸霊は過ぐる戦争においていとしい家族を残しひたすら祖国の繁栄を願い、戦線におもむかれました。
そうして幾たびの戦闘に勇戦奮闘されましたにもかかわらず武運つたなく戦の庭に散華されましたことは、まことに痛恨の極みであります。
この尊い幾多の犠牲も空しくついにわが国は敗戦の憂き目を見るに至ったのであります。
歳月の流れははやく戦後すでに六十年を経ました。日本は国民の努力により目ざましい発展をとげ世界注視の的となった今日の繁栄と平和をみることができましたこと、これひとえにご英霊のたまものと深く感謝申し上げます。
この間、困苦と悲しみをじっと耐えぬかれて一家の隆盛を支えてこられたご遺族のご心労は、いかばかりであったろうかと胸中をお察しいたしますとき万感胸に迫る思いでいっぱいであります。
諸霊のご加護のもと安芸郡住民は力を合わせ明るく住みよい郷土づくりにいそしみました結果、今日このように立派な安芸郡に発展しました。
しかし、安芸郡として残すところ後三ヶ月余りとなりました。新生津市に向け、今後は郡民の皆さまと一体となり新しい街づくりを進めてまいりたいと存じます。
新市の一員となりましても更に住みよい郷土づくりにいそしむ私達のうえに、今後とも変らぬご加護をお与えください。
ここに平和のいしづえとなられた英霊のごめい福をお祈り申し上げ、あわせてご遺族のご多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。
平成十七年九月二十五日
安芸郡町村会長
横山 雅宏